過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

死んだらどうなるか

死んだらどうなるか。……わかるわけないけど、いちおう考える素材として。

この世は、自分が作った世界。夢という見方。自らが夢の世界を創出して、その中で喜怒哀楽をして遊んでいる。それが、この人生。

夢から覚めたら(生が終わって肉体を離れたら)、なぁんだ夢だったのか、ということになるのか。

いや、まったくもうなにもない。それでおしまい、無なのか。

たとえていうと、ネットゲームで遊んでいる。対戦相手もたくさんいる。しかし、そのゲームへのアクセスやめたら、もうその世界とは関係ない。自分が与えた影響はのこっているのだろうが、しかしゲームにアクセスしなれば、もはや関係ない。

そのように、死んでしまったら、この世とのアクセスは離れるるわけだから、もうまったく関係ない。あとは知らんよ、ということになる。

これはもう、死んでみないとわからない。しや、死んだらもっとわからない。

えらい人に聞いて、はいそうですか、というわけにもいかない。その人がほとうに知っているのかどうか、これもわからない。

ちなみに、ブッダ教えはどうか。まず生命は輪廻している。死んだらまた生がある。生と死、生と死を無眼に繰り返している。

死んだ後は、次の生があるが、おのおののカルマ(業)に従って次の生命、境遇、生き方が決まる。しかし、この世で徳を積んで来世、裕福な家に生まれようが、天界の神々の世界に生まれようが、この輪廻そのものは「苦」である。もうそんなありようは、離れよう。それがブッダの問題意識だった。

そして、ブッダは瞑想によって、その輪廻の轍から離れた。すなわち解脱した。もう二度と生命を受けない。それが涅槃である。そのように説いた。

死んでも来世がある。次の生がある。人生がある。学びがある。出会いがある。体験がある。それはそれで、すばらしいことだという思いはある。ブッダの説くように、もう二度と生まれないことが、すばらしいという思いは、あんまりない。

ともあれ、それがどうあれ、この人生は今回限りしかない。それは、事実だと思う。この瞬間が二度とこないように。今回限りの人生と。

それはすなわち、今日一日である。いまここで生きているという事実である。いまここをしっかりと生きる、悔いなきようにちゃんとやる。それくらいしかできない、ということになるか。そうしてまたそのことが、すばらしい現世浄土だという見方もできる。