過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

オウムについて(3)

オウムについて(3)

元オウムの友人から、いろいろ話を聞いたこと、オウムと出会った体験などを書いていく。

かれらは信徒というよりは、修行者たちの集団という感じであった。なにかを信じて礼拝する信仰的なものよりも、修行して実体験で掴んでいく。いわば仮設、実験、証明という体感でつかんでいったように思う。

たとえば、瞑想したり、マントラを唱えたり、五体投地したり、ヨーガをしたり。こういう修行をしたらこういう成果があるという、ではやってみようじゃないか。やってみた。たしかに体験として得られた。では、次の修行を……という感じ。

オウムに入ったそもそもの出発点は、神秘体験にあったという人が多い。ひとつには麻原によるシャクティ・パット体験だ。シャクティパットとは、眉間に指で押さえられたり、アタマを叩かれたりして、エネルギーを入れられる。すると、尾てい骨にあるというクンダリニーが覚醒するというエネルギー体験。

いきなり、クンダリーニの覚醒してしまい、尾てい骨から頭頂に突き上げるエネルギーで、結跏趺坐したまま、なんどもジャンプしてしまったりする。まあ、それが空中浮遊としてアピールしていたわけだが。ダルドリー・シッディとオウムは呼ぶ。そういうエネルギー体験をもつ。

出家すると、麻原から言われたことが、すべて修行(ワーク)としてとらえるというありようとなる。

その指示した内容たるや、荒唐無稽なものがたくさんある。

たとえば、空飛ぶ座布団、飛行船、ミニブラックホール、水中都市、レーザー兵器、麻原の脳波を信徒におくるヘッドギア、地震兵器、マシンガン、ロシアでの布教、ロシアから短波放送で日本に向けて説法、ロシア人のオーケストラ。

肉体労働も修行だ。熊本や富士や上九一色村やら、あちこちに道場の建設していくのだが、それら土木や建築作業。翻訳のような頭脳労働していたものが、ユンボを運転させられたり。

イラストレイターがマシンガンの部品を作らされたりした。運転免許すらもたないデザイナーに、ヘリコプターの免許を海外に取りにいけとか。

こうしたさまざまな行為は、すべてがワークであり、霊性修行としてとらえていた。そのなかに、炭疽菌散布、サリンなの製造や散布、さらにはポアという意味合いでの殺人なども、ふくまれていたのかもしれない。

密教というものは、とくにグルが絶対となる。これはヒンドゥーの師匠と弟子の関係でもそうだ。新興宗教など、教祖の言うことは絶対となりがちである。

すばらしい師匠に出逢えば、それはとてもありがたいことなのだが。師匠をまちがえると人生は取り替えしがつかないということになるか。


http://d.hatena.ne.jp/ichirindo/20180801/1533121247
http://d.hatena.ne.jp/ichirindo/20180731/1533005988