過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

私たちはこの世に再び生を受けた。自ら求めてこの現実に世界に入ってきた。

きのうは「デスカフェ」開催。10名ほどが参加。アメリカから参加してくれた人もいた。インド人も参加してくれた。5時間くらい語りあった。

ここでそのいろいろな人の発言をまとめるエネルギーはないが、いま感じていること。
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きっと死後の世界は、ものすごく静寂、清浄、安楽。至福に満ちている。
現世の悩み苦しみは瞬時になくなる。
数名の臨死体験者から聞いた話もそうだった。

そうかもしれないし、そうでないかもしれない。
人によってちがうかも。自分は体験してないのでわからない。

ともあれ「死んだらおしまい」ではなく、次の世界がありそう。そして、そこには至福の世界があるのかも。「なあんだ、死んだらこんなにラクで幸せに満ちていたのかと感じる。自殺した人だって至福の世界かも。

しかし、それは現世での苦しみがあればこそで、そこから解放された幸せということができる。
現世の苦しみとワンセット。喉が渇いて死にそうな時、水を飲んで「ああ、幸せ」みたいな。
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しかしだ。そこにずーっといたら、つまらなくなる。こんどは苦労が欲しくなる。煩悩の森林で遊びたくなる。
肉体をもって暮らす。いろいろなところにでかけ、ぶつかり、苦労が欲しくなる。悩み苦しみが欲しくなる。

というわけで、私たちはこの世に再び生を受けた。自ら求めてこの現実に世界に入ってきた。
このいまの悩み、不安、後悔、苦しみを体験するために。
この日常のリアリティこそが、自分が求めていたことなのだ。すなわち、いま宝の山に暮らしている。
「極楽百年の修行は穢土の一日の功徳に及ばず」(日蓮『報恩抄』)

まあそのあたりは、観念的には理解している。
だけど、苦労はやはり嫌だなあ。楽になりたいなあ。お金あるといいなあ。時間あるといいなあ。健康がほしいとか。そういう自分である。