南無妙法蓮華経と唱えることによって、心身の安定が得られている。ひとたび座ると、ざっと40分は唱え続けられる。お金はかからない。元気になる。気分転換になる。いまは、その探求中である。
正座のスペースがあればいい。半畳もいらない。なにかを拝むというのでもない。なんにもなくてもいいのだが、あったほうがやりやすい。仏像でも、マンダラでも、ロウソクでも、なんでもいい。心が集中するものがあればいい。
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唱えているとき、下腹の丹田のところから静かに湧き上がるエネルギーを感じる。丹田から声を響かせる、あるいは眉間に響かせる。
下腹と眉間を行ったり来たりして、唱えている。ときに頭頂から抜ける、あるは喉から、あるいは胸(ハート)のときもある。尾てい骨も。それぞれのチャクラに南無妙法蓮華経の響きが、振動していくわけだ。
フイゴによって石炭が赤々と燃え続ける蒸気機関車のように、内側から心身を温めている。
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「自受法楽」(じじゅほうらく)という言葉がある。自らが存在(真実)の楽・喜びを受けるということだ。
日蓮は、弟子の四条金吾に手紙を書いている。「苦をば苦とさとり、楽をば楽とひらき、苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ。これあに自受法楽にあらずや」。
苦しみは苦しみのままに、楽は楽のままに、苦楽ともに南無妙法蓮華経と唱えていきなさい。それが、自受法楽というものだよ、と。
この「自受法楽」とは、燃え上がる躍動する歓喜の状態ともちがう。静かに炭が燃え続けていくような感じ。じわじわと振動するさざ波のような、そんな喜びが心身に浸透する感じ。
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インド哲学では「サッチダーナンダ」(Sat chit ananda)という言葉がある。
「sat」とは、存在そのもの、あるがまま。「chit」とは、心であり、識別し感じる働き。「ananda」とは、静かな至福。
ちゃんと五感は冴えわっていて、どこか異次元の世界にぶっ飛んでしまうのではない。つねに、心はいまここにある。そうして安心している。自分にくつろいでいる。至福に包まれている。
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自分とは、自分の心であり、身体である。そして、それは自然であり宇宙である。自分の心が、世界としてあらわれる。
ならばまずは、わが心を浄化し、エネルギーに満ちていくことしかない。その実践法として、南無妙法蓮華経と唱えているわけだ(南無阿弥陀仏でも、オーム・ナマ。シヴァーヤでもなんてもいいのだが)。
現実の世界は、そのまま自身の心のありようともいえる。心が否定的であれば、世界はつらい。心が愉快であれば、世界は愉快だ。「三界唯一心」(華厳経)である。