過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

問題があってこそ、自由がある。制限があってこそ、自由があると考えることにした

お金も時間も体力もあって、自由であることに憧れる。旅にも出たい、コンサートにも行きたい、創作活動にも打ち込みたい。のんびりしたい。

現実は、お金も時間も体力もない。不便な山里暮らし。子育てもたいへん。かろうじて気力はまだあるが。課題は山積、積み残しばかり。

まあ、これまでさんざん余裕かまして生きてきたから。それに、余計なことばかりやっているから、と妻は言う。たしかにそうなんだが。

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しかし、こうも考える。問題がなくなっても、かならず次の問題が現れる。いつも問題の海の中に、浮かんでいる。問題という大波がやってきて、乗り越えたらまた次の波。それこそが人生と。

問題があってこそ、自由がある。制限があってこそ、自由がある。障害があってこそ自由がある。問題や制限や障害がなければ、自由はないのかもしれない。

問題も障害もない自由というのは、もしかしたら、まったくつまらないかもしれない。まだ体験してないので、わからないのだが。

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そうして、いまの問題というのは、もっと大きな問題が生じたら吹き飛んでしまうようなものか。交通事故に遭った、末期がんの宣告をされた、失明した、手足の自由が失われた、土砂崩れで家がつぶれた。

……もしも、そういう過酷な現実が押し寄せたら、いまの問題など、いっぺんに吹き飛んでしまう。こうして生きているだけでも、ありがたいはずなんだが。

つまり、問題が小さいからこそ、問題となっているのであって、大きな問題が次々と生じたら、些末な問題として吹き飛ぶ。しかしまあ、やはり現実の問題として、しっかりとあるのだが。ま、それと格闘しながら、人生をたのしめるかどうか、というところ。なるようにしかならないわけだし。