かつて西インドの砂漠を旅した時、太陽の輝きは厳しすぎると感じた。5月だった。熱くてどうしようもない。おそろしい。砂漠の民は、太陽よりも月であり星がたいせつ、と感じた。
ラクダつかいは、遠方のであゆむ人たちに呼びかけるとき、天にむかって、投げかけるように、歌うようにして声をかけていた。
その歌い方、声の響かせ方は、モスクで『コーラン』の詠唱をきいたとき、相通じるものを感じた。
アラーーーーーーーーーア、アクヴァーール。
いっぽう、ガンジス河のほとりで宿泊した時、朝方、聞こえてきたサドゥ(遊行者)たちの唱えるマントラ。それは、地に響かせるようなものと感じた。
スリーラーム、ジェイ、ラーム、ジェイジェイ、ラーム。
ところで、仏教のお経や祈りの響かせ方は、どちらかというと、地に響かせるエネルギーと感じる。身体でいうと、丹田に響かせていくような。
いっぽう、神道は天に響かせるエネルギーと感じる。あたまのてっぺんから抜けていく感じ。
たかまのはらにーーー、かむつまりますぅーーー、かむろぎ、かむろみのぉぉぉ。
どちらも、これまた味わい深い。ぼくは、ときに神道の祝詞をよみ、仏教やヒンドゥーのお経をよむ。ときに、南無妙法蓮華経であり、ときに南無阿弥陀仏。そして、オーム・ナマ・シヴァーヤであり、ハレー・クリシュナであったりする。
教義の内容はともあれ、声の響きと身体感覚というところからみてのはなしである。