過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

元型としては、「おかーちゃんたすけて」という叫びにあるような

心身がつらいときがあると、運転していて「おかーちゃんたすけて」と、叫んでみた。ときに、心のなかで叫ぶ。亡き母が、救ってくれるわけもないのだが、そう叫ぶことで、心身ともににホッと安らぐことがある。なにか救われるような気がしてくる。

おかーちゃんは、ぼくの亡き母であり、母というなんでも助けてくれる偉大なる慈愛の存在のシンボルみたいなものかなあ。

子どもが、悲しい、痛い、つらい、寂しい時、おかーちゃんと泣き叫ぶ。それを見ていて、そこに共感したのだと思うが。

ところで、仏教とは、つまるところ、「他を灯(ともしび)としない。自分自身を灯(ともしび)とすることだ」と思う。

そのための実践法を伝えたのがブッダである。そこにこそ解脱(げだつ=苦しみから脱すること)と涅槃(ねはん=究極のやすらぎ)がある。

仏道は、そのための発心であり、戒律であり、禅定などさまざまな修行である。そういうとらえかたもできる。

だが、きわめてこれが難しい。とくに凡夫、在家には無理だ。ということで大乗仏教運動が起きてよく。ブッダの滅後100年、200年経った頃からだろうか。

さまざまな経典を読んでみると、その中核は、ブッダという偉大な存在を拝することにある。

仏は同一、一味ということで、阿弥陀如来大日如来、あるいは観世音菩薩、不動明王など、さまざまな仏や化身などを礼拝することになる。

さらには、仏を念じ、その御名をとなえることで、救われるとも説かれる。南無阿弥陀仏と称えれば、浄土に往生できる。南無釈迦牟尼仏ととなえればいい。観音様を念ずればいい。真言を唱えればいい。あるいは、南無妙法蓮華経と唱えればいい。

そういう流れがあるが、ひとつの母体・元型としては、「おかーちゃんたすけて」という叫びにあるような気もしてきた。