過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

唱えること、すなわち、そこに祈りがあり、願いがあり、すべてが入ってくる

この数か月は、いつになく体力と気力が衰えてきた。風邪も一ヶ月半くらいつづいていた。基底部に、無力感とだめだーという感じがあって、どうにもエネルギーが出てこない。

そこで、心身の蘇りをかけて、南無妙法蓮華経と唱えることにした。毎日、1時間くらい唱えている。唱えつづける、安定して声を出す、というのは、なかなか体力がいることだ。しかし、そのことでエネルギーが湧いてくるのは、たしかな身体実感がある。

唱えることが、そのままま丹田呼吸法になる。芯というのか軸がブレなくなる。状況にあたふたしなくなる。

ヴィパッサナー(観察と気付き)や丹田呼吸法もたいせつ。いろいろな入口がある。ぼくは、基本、サマタ(集中の瞑想)ということになる。そうして、サマタとヴィパッサナーは両輪と感じる。

集中の瞑想としては、やはり声を出すのがいい。いわばマントラ真言)瞑想だ。唱えることは、そのまま呼吸法である。腹の底(丹田)から声を響かせるような感じだ。

マントラは、無限にある。たとえば、南無妙法蓮華経南無阿弥陀仏(なんまんぶ、なまんだぶ)、南無大師遍照金剛、など、のーまくさーまんだ(不動真言)、トホカミエミタメ、オーム・ナマ・シヴァーヤ。

なんでもいい。しかし、自分が唱えやすいかどうか。時間くらい唱え続けられるかどうか。雑念がさらりさらりと流れていくか。身体実感として確かに勢いが生まれてくるか。エネルギーが感じられるか。そうして、心境が澄んでくるか。

身体的実験。いろいろためしてみて、やはり南無妙法蓮華経と声を出していくことが、いまの自分には効果があると感じている。

唱えること、すなわち、そこに祈りがあり、願いがあり、ありがとうがあり、ごめんなさいがあり、許してくださいがあり、誓願がある。イメージを確固としていく引き寄せの法則があり、そうして、はからいをこえたおまかせの境地がある。すべてが入ってくるように感じられる。