過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

エネルギーの充電、いわば生命力の深化と透徹のために、ひとつまた唱題行にたちもどる。

ある人から、「アストラル体からエネルギーがだだ漏れしているよ。なので、なにをやっても疲れているんだよ」と言われた。まあ、アストラル体とかよくはわからないが、この数年、疲れているのは確か。エネルギーが弱っているのは確か。身体的実感だ。

エネルギーが漏れているのは、いろいろと考えごとをするからだと思う。「考える」というのは、相当に、エネルギーを放電しロスする。

いや、「考えるべきときにちゃんと考える」のは大切。しかし、どうでもいいときに、あれこれと先案じや後悔、いらぬ考えが入る。それでエネルギーが漏れていくのだと感じる。
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そこでやはり、瞑想に立ち戻る。入り口はたくさんある。ただただ坐る「只管打坐」もひとつ。そして、呼吸や身体的な動きに意識を向けていくヴィパッサナー(観の瞑想)もひとつ。マントラ瞑想(真言やお題目、声の響きに徹する)もひとつ。ただただ、祈るも一つ。

入り口はたくさんある。そして、ひとつに徹していくと、すべてが融合してくる。これが正しいとか、あれが間違っているというものはない。そう思う。
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だが、ちゃんと場をしつらえるのは大切。ということで、瞑想する場を机の近くに移動した。いつでも、座れるようにした。唱えられるようにした。

本尊は、とくにこだわらず。金剛界曼荼羅を背景に、十一面観音と阿弥陀如来を置いている。

ところが、仏像を安置してから、あかりが菩薩像の腕を持ったら、片手がぽろりと落ちてしまった。あかりはごめんなさいと反省してくれたけれど。さてきょうはボンドで補修せねば。
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「朝朝(ちょうちょう)・仏と共に起き夕夕(せきせき)仏と共に臥し、時時に成道し時時に顕本す」(傅大士の釈)

この文は、日蓮が弟子に行った「御義口伝」という『法華経』講義のエッセンスから引用したのだが(室町期の偽書らしいが、そのあたりはどうでもいい)、傅大士(ふだいし)の釈というのが、しらべてもわからない。制作者も、どこからか「孫引き」したのかもしれない。

まあ、ともあれ学者じゃないので、なんでもいい。エネルギーの充電、いわば生命力の深化と透徹のために、ひとつまた唱題行にたちもどる。朝と夕にきちんと祈り、ときに応じて坐る、声を響かせていく。