なにかを信じて、南無妙法蓮華経と唱えているわけではない。本尊とかマンダラとか仏さまを信仰していて、ご利益をいただこうというのではない。いや、神仏の加護というのか、霊的なはらきのようなものに対する期待は、すこしはあるかもしれないけど。
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基軸は、唱える響きそのものの「身体的実感」だ。唱えることによって、たしかに体の調子はよくなる。元気が湧いてきて、エネルギーが循環していく。それが実感される。だから続けられる。
唱えるマントラ(真言)は、じつは何でもいい。いろいろ試してみて、自分の身体実感から、「これは確かにいい」「自分にあっている」と感じられるところから実践している。
そこに信仰というものは、入らない。教義とか理論もない。あったとしても、後付けだ。
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なにかか偉大なものを信じるわけではない。いわば瞑想法。そして、黙想する静かな瞑想よりも、声を出すというマントラ瞑想である。声の響きによって、心身のチューニングをはかるともいえる。
丹田呼吸法に通じるものがある。頭頂からエネルギーが抜けていく感覚で唱える時もある。眉間から抜けていく、循環してくこともある。
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何か「本尊」に向かうのかというと、仏前に置いた燈明である。炎である。光である。
安置してあるのは、十一面観音の像。背後には、密教の金剛界のマンダラ。隣には、小さな阿弥陀の像と道教の像。
仏像やマンダラは、心を集中する媒体でしかない。だが、仏像があると落ち着きやすい。仏前を整えようという気持ちになる。
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家の中がごちゃごちゃしていても、仏前ごだけはきちんと片付け掃除をする。その場がすなわち神殿である。道場である。
魂を浄化する空間である。自分の心を深く観察する場である。心境がが澄んでくるフィールドである。
あるいは先祖と対話する場。亡き父と母そして祖母と、やりとりをする場でもある。そして祈り願い現実の苦労を克服するための実践の道場となる。