過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

偉大な存在とともに、その文脈に生きるあり方と、身体的的実感のあり方

宗教は、「偉大な存在とともに、その文脈(context)に生きること」ともいえる。
たとえば浄土真宗。日々の暮らしの根底に「阿弥陀様はありがたい。阿弥陀様は自分を救ってくださる」という信仰がある。絶対なる阿弥陀様におまかせした生き方となる。ゆえに安心の道を歩むことになる。
その信仰のありようは、親から子へと、先祖伝来の思いが伝わっていく。地域の集落の共通意識にもなっていく。それが浄土真宗の強みである。もっとも、阿弥陀の本願を「信じられば」であるが……。
キリスト教イスラムも、真宗のありように似ている。まず、唯一絶対なる神あるいはアッラーがいらっしゃる。日常の暮らしが、神とともにある
暮らしそのものが神の恩寵、あるいは神の試練としてとらえられる。困難があっても、魂の試練であり背負えない困難はないと、とらえる。すべてを神と自分との関係としてとらえることになる。
----------------
ぼくの場合、そうした信仰はない。絶対なる存在は外にはいない。自分の中にいるのかもしれないが。信仰を教理・教学として学ぶのも好きだが、何より身体的な実感が楽しい。
なにかを信仰するとかしない、というところではなく、縁があったものから実践した上での、身体的な実感をつかんでいくところにある。
たとえば、声に出して祈る。南無妙法蓮華経とか、南無阿弥陀仏と唱える。こう唱えたら、どうなるか。倍音にしたらどうなるか。眉間のチャクラ、胸のチャクラから声を響かせたらどうなるか。その身体的な実感、生命感を確認していく
日々の暮らしに、真言や念仏、お題目が、通奏低温として響いていく。あるいは合掌して瞑想する。その静寂と安心をつかむ
こういうことをしていくと、エネルギーの源泉に触れたり、立ち返るような実感がともなうことがある。祈りが深化していくのもわかる。自分を客観的に見つめられるようにもなる。
----------------
身体的実感からいうと、声も出さず祈りということなく、ただただ「呼吸の気づく」というありようがある。
呼吸の上に乗っかっているのが、人生である。困難も、つらさも、不安も、気づきの呼吸というベースに乗っかっている。そして、瞑想しようとする頭の働きを、つねに「今ここ」に引き戻すのが呼吸だ。
そのあたりが、徹底されてくると、心象風景は変わってくる。いろいろ不安であるが、「安心して不安である」ということもいえる。……まあそうは言っても、ぼくなかなか、その境地には至らないのだが。