過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

なかでも浄土真宗が社会活動にわりと熱心である理由

日本の仏教界が受けた安泰と危機ということでいうと、江戸時代の檀家制度は安泰をもたらした。

人々は強制的にどこかにお寺に帰属させられた。お寺は、政治の仕組みとして、村人を檀家として管理することになる。

そのことで、生き生きとした布教の自由はなくなっていく。それは、仏教界の危機ともいえる。安泰によって、儀礼化・葬式仏教化していく。もはや鎌倉新仏教のようなエネルギー、躍動感はない。

実際の危機は、明治維新だ。明治政府は、強力な一元的な国家をつくるために、いわば国家神道天皇制という新宗教を構築していく。

そのために「神仏分離令」を発する。それまで神と仏は、だいたい和合し一体であったのに、無理やり分離させられた。寺領も多く取られた。

多くの寺院は破却されたりした。仏様は捨てられ、川に流され燃やされた。たとえば、いま国宝の興福寺は、春日大社興福寺とに分けられた。境内の五重塔など、焼かれようとした。

わが地元の秋葉寺も、破壊された。仁王像や山門など叩き壊されて、谷底に。本尊も他に持っていかれた。そして、秋葉神社となった。そんなことが全国的に行われた。

次の危機は、大東亜戦争の敗北だ。アメリカの占領政策の農地開放によって、不在地主の土地は、小作人に分け与えられた。寺は疲弊していく。

いっぽう打撃の少なかった宗派がある。浄土真宗である。そもそも浄土真宗には、寺領というものがほとんどなかった。奪われる土地はない。寺の宝こそが、門徒(信徒)であり、福田とされた。熱心で真面目な門徒に支えられて、大きく飛躍していった。

いろいろな宗派をみていて、浄土真宗が社会活動にわりと熱心である。臨床や死のグリーフワークなどにも活動しているところがある。他の宗派は、そういうことはあまり熱心ではないし、関心も薄いと感じる。

ひとつには、自らの愚かさの自覚、自力の無力を知るという真宗の教義からくることももあると思う。そうしてまた、門徒衆に支えられてきた、という背景もある。このあたり、カトリックプロテスタントのちがいのような印象もある。真宗はもちろんプロテスタント的だ。パウロの教えと通じるものがある。

昨日、ひらめきから、F友の山口県真宗のお坊さんにいきなり電話して、そのやりとりのなか、そんなことにも思いたった。