過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

多くの課題をかかえたま、死んだらつらい。

死んだら、どうなる。おしまいか。多くの課題をかかえたま、死んだらつらい。妻と子ども、未整理のモノとゴミ、不完了なたくさんなことの山。やりのこしがたくさん。死んだ後に、多くの人に迷惑をかけそう。それはいやだ……。

そんな思いがある。多くの人がそうだろうか。

なので「終活」ということばがある。ものの整理。受けた恩義のおかえし。心残りのないようにという活動。そうして、たどう看取られ、どうおくられたいか。葬儀は、お墓は、お寺は、宗旨は。しかし、いろいろありすぎる。そして、いわばどうでもいいことかしれない。

しかし、死は不定。いつ死んでもおかしくない、それが人間だ、自分だ。こうして心臓が休むことなく、活動してくれることが不思議。あるいは、天災や事故にも合わず、こうして生きているのは不思議と言っていいくらい。

なので、やはり死を意識していろいろと準備しなくちゃ。しかしだ。さあ数年先には、死を迎えるぞ。そのためにはあれとこれをしようと思っても、いざそうはならない。できない。

病気になったら、もう動けない。寝たきりになったら、なにもできない。人の世話を受けるばかりだ。頭もボケてくるかもしれない。そう考えると、いろいろと恐ろしい。

そうしてまた、こういう考えもある。死んだら、もうこの世とは関係ない。自分が死んだら、この世界はもうない。あとは、迷惑をかけようがなんだろうが関係ない。もう死んだ後の自分は存在しないのだから。自分にとっても、世界にとっても、もう自分は存在しない。世界もない。

もしも、残された世界があったとしても、それは縁のあった人たちの、いわば運命でありカルマである。カルマに従って動く。そして、なにごとも、なんとかなる。なんとでもなるのだ。

そういうとらえ方もできる。まあ、ともあれ、いつ死んでもいいように、日々を生きる。その覚悟で生きる。いまここを生きる。それは、とてもとてもたいせつなこと。