過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

死についての試行錯誤

死についての試行錯誤
 
①死んでしまったら、あとはなにもない。だから、なにも心配することはない。
もしも、死んだあとも自分がいるとか、来世がある。いわばカルマの報いがあると仮定しても、死んだ後はこの世の記憶はない。
 
そこにいるのは、いまの自分ではない。そのことは、過去世の自分を、現世の自分が想起できないことでわかる。
 
ということで、生きているいるこの人生は、一回きり。
 
②死んでなにもないとしても、やはり残された人は嘆くし、苦労もかけたり迷惑をかけたりする。だから、できるかぎりちゃんとしておきたい。それは、そのとおりだと思う。
 
だけれど、死んでしまったら、もはやこの世とは関係ない。この世の現実はなくなる。ということで、苦にすることはない。死んだらもう、おしまいなのだ。
 
③いくら終活してみたところで、いつ死ぬのかわからない。今日かもしれない、明日かもしれない。爆弾が降ってきたり、津波に襲われることもあるかもしれない。だから、どんなに努力しても準備しても、所詮は無力なのだ。なるようにしかならない。
 
ゆえに、一日一日が一生。この一日を精一杯、生きるしかない。楽しむしかない。
 
④死ぬ瞬間、この人生がすべて想起させられる。そしてまた、自分が与えたことを、相手の身になって体験させられるという考えもある。そうかもしれない。そのことで、知らずに相手を苦しめたこと、喜ばせたことなど、相手の側になってリアルに体験させられるのかもしれない。
 
それは、たいへんな苦しみであったり、あるいは喜びであったりする。いわば魂の試練の期間があるのかもしれない。
 
⑤それを経て、死んでしまったら、もうそこは分別のない、大安心。静寂な歓喜のなかにいつづけるのかもしれない。まさに波しぶきが大海に戻るように、すべてがひとつ、と。
⑥そしてまた、その状態をたのしんだあと、厳しい試練の現実のゲームをしたくなって、また挑戦してしまうのかもしれない。性懲りもなく、だ。
 
そして、行き先の見えない、不安と動揺と苦悩の人生を引き受けて、あたふたして、いろいろ学んで気づいて、ムダなことを削ぎ落としていくのかもしれない。