過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

こうして一日一日、なんとか生きられたということ

87歳のお二人の会話。ひとり暮らし。目が不自由、足腰がおぼつかない。

日々、体の自由は利かなくなる。親しい人は次々とこの世を去っていく。先のことを考えると、不安なことばかり。楽しいことはなにもない。することもない。近所の人も、おなじような年齢。どうやって、安楽に死んでいけるか。いつもその話になると言う。
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Aさん:これから先どうなるかと毎日が不安。いつまで、この施設に通えるか。明日のことはわからない。毎日、そんなことばかり考えている。

Bさん:わたしも、先のことが心配でならん。目が見えなくなってきている。よたよたしている。転んだらもうおしまい。

Aさん:もう十分生きたので、人生は余録と思っている。いつ死んでもいい。

Bさん:すんなりとあの世に行ければいいけど、そこが難しい。こればかりは、自分の思うようにならない。

Aさん:あなたは私と比べたら、ずいぶんとしっかりして、自分のことができる。うらやましい。

Bさん:そういうあなたは、近くに子どもがいるし、孫もいる。なにかあったらすぐにきてくれる。こちらは、ひとり娘が亡くなって、身寄りもないし。

まあとにかく、きょう一日、きょう一日。無事に生きていられたということで、一日に感謝するということで……ということで落ち着く。
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これは他人事にあらず。先のこととは思うが、明日は我が身。そうして、高齢社会の日本のありようのひとコマ。ましてや、結婚しない人が増えているわけで、ずっとひとり暮らしの人生。さらには、コロナ禍で人と人との交流が分断されていく。頼ろうにも頼るアテがない。

さて、どうするか。どうなるか。どう生きるか。
これだという解答はない。結論はない。

人は明日のことなど、わからない。つねに先のことはわからない。
しかし、こうして一日一日、なんとか生きられた。いま生きているという事実。どこに行かなくてもいい。なにをしなくてもいい。ただ、生きているという日常の現実がすごいこと。そこを深めるしかないのかなぁ。