過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

語り合いは、いつも「どうやって死を迎えていくか」ということになる

利用者さんとの語り合いは、いつも「どうやって死を迎えていくか」ということになる。
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利用者さんにとっては、死は身近でリアル。なにしろ80代、90代。いつ逝ってもおかしくないわけだ。親しい人たちが、次々と亡くなっていく。今年など、ちかくの集落では一週間で4人の葬儀があった。
この一ヶ月、私設の隣のグランドには、ドクターヘリは3度やってきた。あの人が救急搬送された。脳梗塞で倒れた。施設に入った。子供のもとに行くことになった。そういうことが、身近に起きている。
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ひとつの到達点が「平穏死」。そのためには、どうしたらいいか。
ひとり暮らしでも、いまの家で暮らし続けられるか。そのためにはどうしたらいいか。日頃の健康、食生活と運動、生活習慣はもちろん。
しかし、体が動けなくなったら、どうするか。施設に入るか。では、どの施設がいいか。費用はどうなる。
延命治療は受けたくない。しかし、苦しんで死にたくない。点滴も水分も補給されないと、どうなるのか。
死んだ後は、どのように葬られたいか。遺品の整理はどうなるか。この土地と屋敷はどうなるか。お墓はどうするか。先祖の墓がいいか、樹木葬がいいか、散骨がいいか。
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結論は出るはずもない。しかし、こうしたことがつねに普通に語り合えることがたいせつと思う。
「いかに平穏死を迎えるか」──そこを語り合えるデイサービスというのも、ひとつのうちの施設の方向性かな。