過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「看とりとおくり」の講座の4回目の開催で

もはや肉体が死にゆこうとする時、医療はどういう役に立つのか。
医者としては放置できない。「一分一秒でも生きながらえらせること」が医療の一つの使命である。
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しかし 老衰など治る可能性が全くない場合、無理に生きながらえさせる(胃ろう、点滴、人工呼吸など)することは、かえって死にゆく人に対して負担になる。
何も栄養も与えない、水も与えない方が、 実は楽に平穏に旅立てるということは、よく聞く。
栄養を与え医療処置をするため、かえって地獄の苦しみを与え続けることにもなるかもしれない。
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しかし家族としては放置はできない。 医者としても放置はできず。そのまま医療措置が施され、最後ご臨終ということになる。
そこで「無意味な延命治療はしない」という意図を生前に伝えておくことが大切。 家族とよく話しておく必要がある。
葬儀にしてもこのようにしてもらいたい。墓や散骨などについても同様。
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遺族がいない場合は、そういったネットワークを作って、お互いに協力し合う関係を作っておくことが必要である。
しかしも大切なの司令塔である、プロデューサーの存在である。
医者との調整、親戚との調整、 集落との調整、葬儀会社との調整、 行政との調整など様々な仕事がある。
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そこにいま求つられている、仕事が存在するとも思うのだが、なかなか難しいところではある。
今日は漢方の医療の先生とその辺りの話し合いをした。来年の3月には、 延命治療と尊厳死安楽死、そして看取りと遅れについての語り合いの集いを行うことを企画した。「看とりとおくり」の講座の4回目の開催である。すでにデザインはできている。