過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

友人の密教僧との対話、続

友人の密教僧との対話、続き。─は池谷、「」は密教僧。

──それにしても、仏教はおもしろい。ぼくが惹かれるのは、やはり鎌倉時代の祖師たち。法然親鸞道元日蓮、一遍など。みんなそれぞれ、生き方が。

時代が下って、室町時代の一休、江戸時代の白隠良寛もおもしろい。そのほか、石門心学とかおもしろい人たち、たくさんいる。

「そういう有名な人以外にも、無名の沢山のすごい人がいたということだろうね。木喰や円空もいい」

──無名の人たち。あるいは妙好人という人たち。浅原才一など、すごい。惹かれるね。
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──ところで、日本の宗教はやっぱり先祖供養と血統主義だね。

親鸞がつねに言っていたのは、「自分が死んだら賀茂川へ捨てて魚に与えよ」と。にもかかわらず親鸞の遺骨をまもるために建てられたのが大谷御廟。そこから本願寺が出ている。

そして血統とか好きだね。血統が権威になる。天皇制、浄土真宗門主門首)も、真宗の各寺院、新興宗教のトップ、みんな血統主義

真宗は同朋運動(差別・被差別からの解放、平等思想)とかいってるけど、もっと差別的なのが真宗だよ。たとえば、本願寺の内陣に入れるのは、資格が必要。大卒でないといけない。寺格によっては入れないとか。寺格によって座る場所が異なるとか」

──親鸞の血統の人しか門主門首になれない。やんごとなき血筋。天皇家にもつながる。で、門徒門主門首)の入ったお風呂の水をたいせつにしまっておいたり、飲んだりする。功徳があると思われているのかも。

各寺院も、代々の住職の血統の人が継ぐ。ぼくの知り合いの坊さんなんか「若」と呼ばれていた。江戸時代のお殿様みたいな扱いだ。みんなが寄ってたかって袈裟衣をつけてくれて、寺にベンツがやってくる。「若、おねがいします」「ああ」と。中身じゃなくて血統。

「法脈じゃなくて、血脈主義ってことだね」
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──ところで、そもそも先祖はあっても先祖霊っているのかねぇ?あるのかねぇ?

「先祖というのは自分に集約されている。自分が先祖そのもの。自分が自分に供養する。それが先祖供養の本質だよ。」

──おお、なるほど。自分が自分の先祖であり、自分が自分に供養する、自分が自分を拝む。それいいね。

「仏様を拝むのも、仏性のシンボルとして拝む。わが内なる仏性だよ」

──密教の根本経典の大日経には、「如実知自心」=「実のごとく自心を知る」だからね。インドの「ナマステー」という挨拶も、「わがうちなる神が、あなたのうちなる神を尊敬します」ということだしね。
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──ところで、仏性のシンボルとして、本尊は、どうしているの?

「本尊はなんだっていい。縁があるものでいい。すべてはつながっている。うちはお不動さんだけど」

──好きな真言、好きな本尊、縁のあるものでいいよね。「一即多、多即一」(華厳経)だから。真言も同様だよね。なんだっていい。不動真言でも光明真言でも、諸尊の真言でも。

でも、実践のかたちとしては護摩というスタイルはとるよね。護摩を焚いてお不動さんとか諸尊を招く。

護摩には、内護摩と外護摩がある。で、内護摩が大切。いつも本尊を念ずることが、内護摩だ。」

──加持身(大日如来が利他のためにとる形態)を念ずるというのはあるよね。

「うちでは不動明王が一番人気がある。こないだの法事では、250名の参加者があったよ。これ以上参加されたら、ひとりひとり対応できないので、これくらいがちょうどいい。そして、信徒同士が体験を語る。シェアする。その体験を聞いてまた気づきが起こる。

──たいしたものだなあ。いいなあ。
好きなことしてやっていけてるわけだ。うちは、青息吐息。もしも金があれば、家族でインドを旅したい。巡礼みたいなもので、旅の途中で死ねばいい。

海外に行くと価値観、暮らし方、生き方がちがうのは、とてもおもしろい。リアルに体験する。あかりにとっても、もっとも勉強になる。
たとえば、お茶碗でごはんを食べるのは、中国圏だけ。韓国はテーブルの上に置いてたべる。手に茶碗を持たない。日本は茶碗を持って食べる。インドは手で食べる。

まあ、海外旅行はもう無理かなあ。この山里で、日々の暮らしの中で楽しく生きていくしかないよ。

──うん。それを望んできたんだから、そうなったんだよ。

「まあね。無上宝聚・不求自得=この上ない宝物を求めないのに、もう得ている(法華経 信解品)ってことにするよ。いまがいちばん、これがいちばん。もう得ていると」