過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

墓じまい(5)先祖供養

親しい人が死ぬ。故人は無になって、この世には、いない。

霊体としてどこかにいるのか、あの世とか浄土にいるのか。あるいは、すでに転生しているのか。だれにもわからない。

しかし、どこかに存在し、いまにつながっているような気がする。先祖などは、自分たちをいつも見守っているような気がする。それが、日本人の共通感情だろうか。

こうして自分が生を受けたのは、両親があり、先祖があればこそである。木でいうと根っこの部分だ。そこで、先祖に対しての供養が必要ということになる。

供養とはなにか。たいせつなのは、自分自身の日々の思いだろう。先祖に対して、思いを致すこと。つねに思い起こすこと、ありがたいと感じること、報告であり、語りかけ。そこに供養の本義があるとおもう

苦しんでいる先祖がいるとしたら、その苦をなんとか救いたい。あるいは、自分の今の悩み・苦しみを先祖たちの力によって助けてもらいたいという思いもあるかもしれない。

ということで、特別な儀式もいらない、お経も必要ない。仏壇も本尊も位牌も二の次だ。とはいうものの、やはり人は形から入るので、お経や念仏、お題目や真言を唱えることで心が落ち着くならば、それはやったほうがよい。ぼく自身は、実践している。それぞれの選択。


故人に、先祖に思いをいたすという肝心なところを疎かにして、立派な葬儀だの戒名だの、墓だのにこだわっても、あんまり意味がない。お金があればは、立派な戒名をもらい、たくさんお坊さんをお呼びして、盛大にやればいい。


そうして、こう考えてもいい。故人も先祖も、それはじつは「自分自身」だと。故人や先祖を供養するのは、自分を大切にしていることになる。自分を祝福し、癒やし、元気つけているのだ、とも。