過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

ベトナム僧のタン師を招いてリトリートから、歴史を振り返ってみる

9月9日、ベトナム僧のタン師を招いてマインドフルネスのリトリートを行った。平和で柔らかな波動の一日であった。

タン師は、日本語はそんなに巧みではないものの、その明るい、微笑みのありようは、しかと伝わってくる。

出家に至るいきさつをお聞きすると、いろいろな人生模様があらわれる。
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タン師は28歳で出家して13年。いま41歳。日本では16歳のときに来た。両親は、ベトナム戦争(1955年11月〜1975年4月という20年の戦争)のときの難民であった。

難民は「ボートピープル」とよばれる。紛争や圧政などの下にある地から、漁船やヨットなどの小船に乗り、難民となって外国へ逃げ出した人々のことだ。

ボートピープルの大半は、タイ、マレーシア、シンガポールインドネシア、フィリピン、香港などの東南アジア諸国に到着したが、外国船に救助されて日本に上陸した人もいる。

ボートピープルの総数は約144万人。日本では1979年から2005年にかけて1万人ものベトナム人を受け入れた。タン師の両親はそうして、日本に来たわけだ。
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しかし、言葉は通じない。仕事もない。肉体労働に従事しながらの暮らしで、アルコール依存症になった。家庭では暴力や諍いが絶えず、タン師はそんな父を受け入れることができなかった。

そんなときに、ティク・ナット・ハン師に出会った。「あのような人になりたい」ということで出家したのだという。

タン師が日本に来たのは16歳のとき。昼間は旋盤工やNC 工作機械の仕事に従事した。そして、夜間高校に通った。機械相手の仕事のため、日本語をしっかり学べなかったことが、今でも残念という。
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また、ホアさん夫妻が中心となってベトナム人が力を合わせて寺をつくった(天恩寺)。ホアさんは、いま51歳。子どもの頃はベトナム戦争のさなかで、まともな教育が受けられず、きちんとしたベトナム語ができないという。

ベトナム戦争の時代は、南ベトナム政権が行った仏教徒弾圧に抗議し、ガソリンをかぶって端座合掌しながら焼身自殺をした僧侶(ティック・クアン・ドック)がいた。

まさに、「自分の体をたいまつとして(南ベトナム)政権の闇を打ち破った。非暴力の精神で、宗教の平等と自由への闘いに身をささげた」と言われる。

そんななか、タン師の先生である、ティク・ナット・ハンはフランスに亡命し、マインドフルネスや平和に関する力強い教えと著作で世界的スピリチュアルリーダー、詩人、平和活動家となってゆく。

その拠点である南フランスのプラムヴィレッジは、最初はベトナム人の難民キャンプであった。いまでは僧侶が200名以上、リトリートを行えば千人もの人が集うムーブメントになっている。
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日本は、朝鮮を征服し、中国も征服しようとして満州国を建国、欧米の経済封鎖に遭い、ついにはアメリカを相手に戦争を行ったが、アメリカ軍によって徹底的に破壊された。二度も原爆を落とされ、ソ連からも侵寇され無条件降伏した。

敗戦後は、餓死者が続出するような食糧危機、経済の大停滞であった。そんななか、経済を回復したのは他国の戦争による特需であった。まず、朝鮮戦争(1950年〜1953年、3年余にわたり朝鮮半島のほとんど全域を戦場化して戦われた)そしてベトナム戦争(1955年〜1975年)が起きた。

それによって、日本は、特需が起きて、経済は回復し高度経済成長を遂げていくことになった。ある意味では、他国の戦争という犠牲の上に成り立った繁栄ということもできる。

ベトナムとの交流によって、そんな歴史を振り返ってみた。