過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「お金を払う」ということについて「哲学 仏教 生き方講座」①

長野貴晃さんによる「哲学 仏教 生き方講座」(仮称)を開催している。まずは1回目。5時間の質疑応答だった。

悟りとは、わかると悟るの違いについて、アセンションとは、唯識と中観についてというような、概念的な質問もあった。それは別の機会に紹介する。

今回は、「お金を払う」ということについてまとめてみた。

親しい人が行方不明になり、そのことで、お金を負担しなくてはならなかった。どう考えたらいいか、という質問があった。それに対しての答え。

悪いことが起きたと捉えるのではなくて、これで済んでよかったと捉え返してほしいんです。

前もって不幸を予測してしまうと、それに応じた未来が現れてしまいます。ありがたく受け止めていくのです。心配することは何一つありません。そして自分の問題でもありません。

その方を通して、縁のある人にお金がわたった、持っていってくれただけ、と考えることができます。

本来別のところで解消されなければならなかったものが、いまその方を通して解消されたのです。

また、税金の支払いについて言えば、政治の問題など、数え上げればきりがありません。いまの政治は、国民のためにやっていることなどごくわずかで、税金は特定の人たちの私利私欲に使われているのかもれません。

けれども、税金にしても、供養のつもりで払えばいいのです。これでみんな幸せになるんだと思えば、それが「布施」になります。全部自分のためになります。

お金を払うのは感謝の表れと思ってほしいんですよ。喜んでお金を渡せばいいのです。そうすれば不施になるんです。

お金は、おもしろい「財貨」になるんです。感謝が伴わないお金というのは、財貨ではなくて「罪過」になるのです。

「あげたくないのにあげた」という思いがあれば、感謝が伴わないので、「罪過」になります。お金は喜びの証として払ってください。相手がどうであろうと、です。

お金は感謝を伴って巡らせることが大切です。どこのだれにわたろうが喜んで渡せばいい。それは喜びとして流れていきます。すると感謝としてまた自分に巡ってきます。