過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

カール・リンポチェに出家を勧められたこと

ブッダが悟りを開いたブッダガヤ。レストランで食事していると、西洋人の坊さんがいた。チベット仏教の衣を着ている。めずらしいので声をかけた。

デンマークの人で、元はドライバーだったという。ある坊さんに会ったのが機縁で出家したという。

どんな体験か。その坊さんに出会い、質問しようとする時、不思議と自分の中から次から次へと答えが湧き出てきたというのだ。それで出家したんだ言う。

へぇぇ、そんなお坊さんがいるのか。会ってみたい。たまたまいま、ブッダガヤに来ているという。会うこともできるという。へええ、僕みたいなものでも会ってくれるのか、と聞くと、もちろん会ってくれるよと言う。

ということで、翌朝、でかけた。チベット寺のカルマ・テンプルといったかな。その入り口には、西洋人ばかりが面談するために行列していた。ぼくは、最後尾だった。

しばらく待って順番が来て、部屋に入れてくれた。そこには、年老いた坊さんが、ベッドの上に坐っていた。体がよくないらしい。かたわらには、通訳の西洋人がいた。

ぼくは、つまらん質問をしたものだ。なにしろ英語力が低いので。まず、小乗と大乗の違いは、なんですか? 

坊さんは答えた。小乗はselfがemptyness、大乗はeverythingがemptyness。それを修行でつかむのだよというこたえだった。

ううむ。もっと聞きたいけれど、英語力が追いつかない。それで、次の質問。

私はサラリーマンしていて、どうも満ち足りていません。そんな私にアドバイスをと。

すると、即座にこう言った。あなたは出家しなさい。いまこの場で。さあどうだ。

はぁ? なんと、唐突な。

真に自由になりたかったら、いまここで出家しなさい。でないと、インドの水牛みたいになるぞ。かれらは、鼻に輪っかをはめられて、行きたいところにもいかけず、こき使わている。そういう人生になるよ。出家をしたら、真に自由になるのだ。

それにおまえは、見込みがありそうだ。いい坊さんになる。そして、チベット大蔵経を日本語に訳してみないか。

そう言うのだった。

いくらなんでも、出家とは……。覚悟がいる。いやそのぉ、いくらなでも急すぎて。日本に帰ってから考えます。その程度の答えしかできなかった。

はい、出家します。なんていうことで、チベット仏教の道に入っていたら、ずいぶんと今とは異なった人生になっていたなぁ。出会いを活かす活かさぬは、ひとつの大きな決断。電光石火の瞬間だ。

その坊さんの名前は、カール・リンポチェという方であった。日本に帰ってわかったのだが、チベット仏教の一番大きな派であるカーギュ派のトップの人だった。しかも、ダライ・ラマの養育係も務めたことがあるというではないか。

お会いして一ヶ月後に、カール・リンポチェが亡くなったことを知った。それは、書店でなにげにオウムの雑誌「マハーヤーナ」というのをめくっていたら、「尊師の前世のグル、カール・リンポチェが涅槃に入った」と書かれてあったことから知った。

なんと、亡くなったのか。そうして、麻原彰晃は、カール・リンポチェが前世のグルであったと言い、尊敬していたのがわかった。中沢新一も、カール・リンポチェほどの人が認めた麻原は本物だ、みたいなことを「スパ」という雑誌で語っていた。

それから3年後。マザーテレサに会いたいというので訪ねてきた人を連れて、再びインドを訪ねた。(マザーとの出会いはまた別の機会に書く)。

カルカッタがあまりに暑いので、避暑地の高地であるダージリンに移動した。そこで、カール・リンポチェが転生したことを知ったのだ。

それで、わざわざ山の中を探し求めて、再会(といっても3歳の子どもだ)したことがあった。

ダライ・ラマは、数ヶ月前にその地を訪ねて、元の師匠であるカール・リンポチェの転生活仏に会い、3つになる子どもに対して、五体投地して礼拝した。その姿を見て人々は、みな涙を流したという。

気分転換に、インドの旅の体験をすこしずつ書いていく。