過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

マザーとの出会い

「マザーとの出会い」
①もっとも下座におられた方こそがマザーであった
②いちばん偉い者は、仕える人
③特別な場所、特別な衣装、特別な場所にはいない
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インド、とくにカルカッタは喧騒の町だ。やたらとホームレスがいる。路上で生まれて、路上で育ち、そして、路上で死んでいく人たち。

すえた汗と牛のウンチとカレーの匂いのする通りに、その教会があった。
そこは祈りの場であるとともに、孤児院を経営したり、人々に食事を布施したりしていた。たくさんの若いシスターたちが、働いていた。
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ミサの行われる部屋に入った。
祭壇には十字架とイエスの像。
祭壇に向かって左側は シスターたち 100人ぐらい。 みんな若い。向かって右は一般の人及び「死を待つ人の家」のボランティアたちが50名くらい。

ミサが始まる。いよいよそこにマザーが現れるに違いない。
マザーが儀式を主催して、祭壇の前でお話をされる。そう思っていた。

ところが、ミサが始まると、現れたのは男性の神父(司祭)であった。

「ああ、ざんねん。きょうはマザーに会えないんだな」
がっかり。しかし、式典に参加しているのだから、ともに祈り、賛美歌を歌い、司祭のお話を聞いた。
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30分もたったろうか。ふと後ろを振り向く。
入り口の下駄箱のそばで、ひたすら祈っている老婆の姿があった。着ている服装は、他のシスターたちとおんなじ白いサリー。小さな体をさらに小さく丸く曲げ、額は絨毯につかんばかりにひたすら祈りを捧げている。微動だにしない。

年老いたシスターなんだ。でもどうして、他のシスターたちとともにいないんだろう。まだ正式のシスターじゃないのかな。あるいは、引退した方かな。そんなふうに思っていた。

そうしてまた、時間がたつ。すこし気になってまた振り返って、その老婆をふたたびよく見た。
はっと電撃が走った。
も、もしや……。
この老婆こそ、マザーじゃなかろうか。

よくよく観察すると、まさしくマザーテレサその人だった。
ぼくは愚かにも、マザーは、祭壇の中央にいて、みんなの前に立ち、そして説教を垂れるとばかり思っていたのだった。

マザーは、ぼくたちのすぐ後ろにおられたわけだ。しかも、出入り口の下駄箱のそばという、もっとも下座に。そこがマザーがいつもおられる定位置だった。
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ミサが終わる。すると、マザーはすっくと立ち上がり、一人ひとりにマリア像のメダイ(アルミでできた小さなマリア像のレリーフ)を、手渡してくれた。

深く刻まれたシワの奥にある目を見た。とくに笑顔でもない。特別な感じは全くしない。フツーのおばあさんであった。

日本からマザーに会いに来ましたというと、マザーは「アッチャー」とこたえた。インドの人がよく言う、あれまぁそうなの? という感じの言葉だ。

まあ、かなしいかな私の英語力では、話の展開は大してできなかった。モーゼの十戒を刻んだアークが日本に眠っていて、それを掘り返すというような荒唐無稽な話をマザーにしても仕方がないし。
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聖職者の偉い人、あるいはグルみたいな人は、みんなと違う特別な格好をしている。例えば 冠をかぶるとか、派手な衣を着るとか、なにか杖を持っているとか。そして、みんなの前で 何か説法 したり 祈りを捧げてくれたりするとか。 マザーもそんな感じかなあと思っていた。

ところが マザーは違った。最も下座にいた。 下座にいて祈り続ける人であった。
その祈りに徹する姿こそが マザーの本質なんだろうなと思った。

「あなたがたのうちでいちばん偉い者は、仕える人でなければならない。だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」(マタイによる福音書

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うしろにマザーがいるのに、前を探しているという。いかにも象徴的なこと。「特別な人」「特別なこと」をたいせつにしていると、ほんとうの意味で特別な人がそこにいるのに、特別な格好していないので、気がつかない。

※この体験は、もう30年くらいまえのこと。神との契約の箱(アーク:聖櫃)をさがすという人にインドに連れて行ってほしい。マザーに会わせてほしいと頼まれて出かけた。マザーとの出会い以外にも、わたしに「いまここで出家しろ」と迫ったカーギュ派の総帥カール・リンポチェ(ダライラマの養育係を務めた方)の転生活仏にも出会ったりと、不思議な旅であった。