過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

マザー・テレサは偽善者だ、という

マザー・テレサについて聞いてみた。すると、「あの人は、偽善者だ」という。世界から寄進された多額の寄付金を、医療設備などに使うこともなく、みんなバチカンに寄付してしまった、という。

インドのベルガル地方出身のスワルナリさんと話をしていて、マザー・テレサについて語りあった時のことだ。

マザーの生涯は、インドのもっとも貧しい、虐げられた人々にささげられた。貧困の象徴ともいうべきカルカッタにあって、マザーは路上で行き倒れている人々を引きとって、介抱した。

ただひとりのために、その人のために懇親の愛を傾ける。「誰からも見捨てられた人々が、せめて最後は大切にされ、 愛されていると感じながら亡くなってほしい。 彼らが、それまで味わえなかった愛を最上の形で与えたい。」と。

「主よ、あなたの平和をもたらす道具として私をお使い下さい。憎しみのあるところには愛を、不当な扱いのあるところにはゆるしを、分裂のあるところには一致を」。まさに、聖フランシスコの祈りの言葉のごとくだ。

ぼくにしてみると、マザー・テレサは聖者の領域だ。けれども、実際にインドでは、どれほどの尊敬を集めているのか、聞いてみたかった。ところが「偽善者」だと言われた。

実際のところ、マザーは、ただひとつの病院も診療所もつくらなかった。マザーのつくったのは、修道会「神の愛の宣教者会」、「死を待つ人の家」などだが、いずれもインド政府が貸し与えたもの。「死を待つ人の家」はヒンドゥー教のカーリー寺院の一角を借りている。

ぼくも訪ねたことがあるが、マザーの施設はなにしろ、不衛生で設備が整っていない。最新の医療設備もない。

マザーに寄せられた莫大な寄付金があれば、たくさんの病院や診療所がつくられて、多くの人が病から救われたかもしれない。たしかに、それは一理ある。

マザーは言う。「私は大仕掛けのやり方には反対です。大切なのは、一人ひとりの個人。 愛を伝えるには、一人の人間として相手に接しなければなりません。 『一人ひとりの触れ合い』こそが、何よりも大切なのです」。

マザーは社会奉仕活動、生活改善事業をしていたわけではない。愛の尊さをみずからの〈いのち〉をかけて実践されていた。イエスの伝えた愛の教えの「型」をインドにおいて示したのだと思われる。しかし、スワルナリさんの批判も、なるほどなあと感じたのだった。