過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

スマナサーラ長老との出会い①

スマナサーラ長老との出会い①


「すごいお坊さんがいるんです。いまその方から学んでいます。スリランカから来ているお坊さん。池谷さんに、ぜひその長老を紹介したい」と言う。竹田倫子(後の上座仏教修道会主宰)さんからであった。
──スリランカ? 小乗仏教
どうせ、そんな坊さん、たいしたことはないだろうとタカをくくっていた。
スリランカなどは後進国。南方仏教は小乗。大乗仏教と比較したら、遥かにレベルが低い。もとよりそんな先入観があった。
ともあれ、会場の竹田さんの新宿のマンションを訪ねた。
そこは、子育て中のお母さんたちがメインの集いであった。20人くらいかなあ。
赤ちゃんが泣いている、幼い子がよちよち這い回っている。
そこにオレンジ色の法衣をつけた僧侶がいた。
その方がスマナサーラ長老であった。
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挨拶すると、びっくりするほど日本語が堪能。そして自然で普通な対応。
小さな子どもたちは、外国人の派手な衣装の坊さんが珍しいのだろう。ちかくに寄っては裾を引っぱってはよじ登る。肩に乗る。頭の上に乗っかる。
そんな状態で、スマナサーラ長老は法話をしていたのだった。
そうしたお母さんたちへの説法だから、難しい理論ではない。暮らしに、生き方に役に立つ智慧を教えてくれていたと思う。
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その時の説法はよく覚えてないけれど、
「池谷さん、〝念〟というのは今ここに気づくということになんですよ」
という言葉に、ううむと思った。
念というと、念ずると使う。念力とか、何かに集中していく。あるいはエッセンスを忘れずに保っている(憶持不忘:おくじふもう)(記憶習修:きおくしゅうじょう)。それが仏教界のいわば常識であった。
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そうではなくて、もともとの意味は「いまここに気づくこと」。それが念である。それが、パーリ語の〝サティ〟の訳であること。
そして、「いまここ」とは、自分の動作、呼吸、感情の消滅、それらを微細に緻密に観察していくこと。それがブッダの教えである。
そんなことを教えてもらった。
たぶん「ある」とか「自分がいる」ということについて、やりとりしたと思う。でも、そのことについて、質問している自分がまったくわからないのに、スマナサーラ長老の話がわかるはずがない。
しかし、これは自分にとって、一つの突破の出逢いであった。
いまここに気づいていなくて、概念の海に溺れていて、目の前の生き生きとした現実に挑戦していない自分にとって。
もう40年くらい前の話であった。(続く)