サラリーマン時代。この会社がダメなら別の会社、そして別の会社に移ればいいと変わってきた。
大企業にいると、営業から管理部門など、いろいろやらされる。大阪でピアノを売った、山陰でボイラーや風呂桶を売った、東京でカセットテープを売った。日本橋で貿易もやった。海外物流のコストダウンもやった。株式の管理業務もした。株主総会の仕事もした。
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ひどい腰痛になったり、友人の強いすすめで、会社をやめてアートセラピーの立ち上げスタッフになったりした。そこは2ヶ月でやめた。
で、サラリーマンそのものは向かない、とやっと気がついた時、はて、いったい自分は何ができるんだろう。土俵はなんだろう。そもそも何が好きなんだろう?という時期があった。
職安に行って、いろいろ仕事を探してみた。
おもしろそう!と思ったのは、松竹の歌舞伎座の小道具係。毎日、歌舞伎の世界にいられるなんて、おもしろそう。でも、ふんぎりつかなかった。
陶芸って面白いんじゃないか。友人の陶芸家が、島岡達三(益子焼 人国宝)さんを紹介するよと言ってくれた。益子まで行ったが、やはり無理だとわかった。
まずは塾の先生あたりがいいかなあと応募した。すると社長から、塾の講師よりも、妻の実家は伊勢志摩の真珠の養殖業者で、真珠の養殖の管理から銀座の宝石店に販売するという仕事はどうか、と言われた。
駿台学園が台湾に日本語学校をつくるので、日本語教師を募集していた。採用されて三ヶ月、北京語と日本語教授法を学んだ。しかし、台湾に行く寸前にやっぱりやめた。
つなぎに、結婚式の司会の仕事に応募したら採択されて、しばらくレッスンを受けたが、続かなかった。
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ううむ。自分はいったいなにをしたいのか、それがわからなかった。何でもできそうな気がしたけれど、結局、ほんとうにやりたいものではなかった。
で、結局、自分はインド、宗教、仏教が好きなんだと確認した。
インドのブッダガヤを旅している時、チベット仏教の僧侶からいまここで出家しろと言われた。カーギュ派の長老、カール・リンポチェだった。リンポチェは2ヶ月後に亡くなった。
臨済宗の国際禅道場で座禅していた時、出家しないかと言われた。松原泰道老師のお弟子さんだった。
諏訪湖のちかくに真言宗のお寺がひとつ余っているので、あなたが出家したらあげると言われた。修行(資格取るため)は成田山を紹介する。生徒一人に対して先生が三人いると言われた。
「仕事は仏教そのもの、給与は40万円」という募集広告を見て応募したら、即採用された。頭を剃って袈裟を着てもらうという話になった。なにかピンとこなかったので辞退した。あとで、霊感商法の宗教法人とわかった。
------とまあ、いろいろ迷いつづけ、朝日新聞の一行広告を見た。「仏教・神道の好きな人募集」という求人案内。仏教書の編集プロダクションに入社した。一年しかいなかったが、「空海」の映画作り、お寺向けの本の作り方、企画の仕方、雑誌の取材、編集の仕方を学んだ。
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それから、フリーランスになった。「さあ、なにをして食っていこうか」と思っていたら、K刊行会から「神秘大学」という講座をやりたいので、企画してみないかと言われた。T泉寺から「お寺の新聞を出したいので、やってくれないか」と言われて新聞作りを始めた。そこは半年で、お坊さんと喧嘩してやめてしまった。
すると、国士舘大学から、同窓会新聞の制作を依頼された。年に2回発行なので、あとは自由。で、またインドの旅を続けた。
そのうち、いよいよ貯金も底をつき、家賃も払えなくなってきた。いよいよ「腰を据えて仕事するぞ」ときめた。とはいうものの、何をしたらいいんだろう。
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そうだ、インドのカルカッタ空港でばったり会った宗教評論家のひろさちやさん、そして、スリランカのスマナサーラ長老の対談を企画してみよう。で、出版社に電話したら、即オッケーとなった。ひろさんとスマナサーラ長老もオッケー。
それで、がちこんで帝国ホテルのスイートルームを借りて、対談となった。ぎこちないやりとりで、ちと喧嘩腰にもなった。まったく噛み合わないのだ。それで、「司会者がダメなんだ」とひろさんから叱られた。
それでも、とにかくチカラワザで原稿にした。出版社はオッケーしてくれたものの、ひろさんが、「この本は気に入らない。出したくない」と言われた。うわっそれは、困る。けれども、出したくないものを出す訳にはいかない。そこはすんなり、引き下がった。幻の原稿となった。
すると、「池谷君、わるいので、ぼくの本を作って欲しい」と言われて、ひろさんの本作りの仕事を10冊くらい続けた。同時に、スマナサーラ長老の本作りも始めた。
そのうち、親友から、「医学書をやってみないか」と言われた。医学知識ゼロの私である。「無理だよ」と断ったが、「大丈夫だ」という。で、あろうことか理学療法、作業療法、鍼灸の本(大学、専門学校の教科書)の編集を始めた。ひとつは京都大学の教科書にも採用されているなんて、びっくり。
そのうち、本も売れだしたり、編集費も入ったりして、なんとか暮らしていけるようになった。そうしたら、「東京にいるよりも、田舎暮らしがおもしろい」ということになって、いまの春野町に移住した。それが12年も前になる。
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田舎暮らしになったら、2,000坪近い土地なので、田んぼやったり、ブルベリーを作ったりした。そのうち、NPO法人をつくって、山里の活性化の企画が楽しくて、そればかりやっていた。
それでびっくり、あかりが生まれることになって、もう8年。
デイサービスの経営も3年間やった。しかしうまくいかなかった。昨年の12月廃業した。
それで、やはりライターと編集の仕事が自分には向いている。ということで、出版の世界に戻った。そう決めたら、なんと仕事がやってきた。いまここ。
つねに先のことはわからない。この先、どうなるのか、ちっともわからない。ともあれ、なんとかなってきたものの。しかし、わからない。アテにならない、安定はない。そういうところで、日々、暮らしている。この年になって、まだ自分探しをしている。
教訓。好きなことでないと続かない。躍動しない。力が出ない。努力がいる。ネットワークが広がらない。
そのためには、幼少期に自分の好きなことを見つけることがたいせつ。子供の頃、たくさん遊んで、楽しいことを探求しなければ。