過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

こんな禅僧がおられる

こんな禅僧がおられる。村上光照さん。この方の言葉を本にできないかなあと思っている。お会いしてから30年近くになる。かつて雑誌の仕事で取材して原稿にさせてもらった。伊豆の松崎の草庵におられる。

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こんな禅僧がおられる。村上光照さん。この方の言葉を本にできないかなあと思っている。お会いしてから30年近くになる。かつて雑誌の仕事で取材して原稿にさせてもらった。伊豆の松崎の草庵におられる。

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◎ほんとうの仏道をとことん究めたい

おやじが戦死して、ぼくは母ひとりで育てられた。とことん金がなかった。大学では、山岳部に入って剛力のアルバイトをよくやったよ。着るものといったって学生服しかない。その学生服のまま重い荷物を担いで、よく山に登ったもんだ。おかげで体が鍛えられたよ。
大学では物理学を学んだ。学問として物理学は、とてもおもしろいものだった。時間を忘れて打ち込んだものだ。
でも、ほんとうの生き方ってなんだろう、そのことをずっと求めていた。
世渡りのこと、身過ぎ世過ぎのことなど、一度も考えたことはなかった。

坐禅に出会う

坐禅に出会ったのは、大学二年の時だった。
ある日、坐禅していると、心境がスーっと澄んでね。まことに静かな世界になった。
あらゆる生きものの苦しみや痛みが、わがごとのように感じられたんだ。なんというか、まるで〝いのち〟からしみ出てくるように感じられてきた。
それから、禅語録の『碧巌録』を読みはじめた。この書物は、難解なことで有名だ。先輩たちは、いくら読んだって分からないよと言う。ところが、読み出したらこれが、おもしろい、おもしろい。手にとるようにわかりだしたんだ。
「なるほど。禅とはこういうものか」
すこし悟ったような気分になったものだ。

◎澤木老師に出会う

ところが、後に澤木興道老師に会うと、そんなものは
──小悟の世界──
ということを知った。ほんものの悟りとは、そんなものじゃあない。
ほんものの悟りとは、如来の光が宿って、そのはたらきでものが考えられ、自然と体が動かされる。いわば、池の水が澄みきってすべてを映すようなものだ。
そのことは、まさに道元禅師が教えられたことだ。そのことを、のちに澤木老師によって知った。
「この師に接して、ほんとうの仏道を、とことん究めたい」
当時、澤木老師は京都で接心をされていた。そこで老師のおられる京都に行こうと思い、名古屋大学から京都大学の大学院に行った。
大学院では、中間子論でノーベル賞を受賞された湯川秀樹博士のもとで素粒子論を学んだ。世界一の研究者のもとで学べることは最高の喜びだった。でもいつも
「学問はいつでもできる。まずもって生死の問題を明らめねばいけない」
と思っていた。だから、もう徹底して坐禅一筋だった。
澤木老師の行くところ、どこにもついていったよ。
苦しいも眠いも痛いもない。ひたすら坐禅に打ち込んだよ。

◎学生のまま出家してしまう

大学時代は、山奥の寺を借りて暮らしていた。そこで論文を書いて、悠々と坐禅するという暮らしをしていた。食べ物といえば、玄米ご飯に、農家からもらってきた大根の葉っぱがおかずだ。たったそれだけだが、まったくからだの調子がいいんだ。ほんまもんの食事は、からだが知っていて満足するんだなあ。いまでもぼくの食生活は、そんなものだ。
母親は、ぼくが大学の教授になることを期待していたけれども、ぼくは学生のまま出家生活に入ってしまったよ。

◎どこに行ってもそこが道場になる

そんなことで出家してから、もう六十年ちかくになる。
九時に寝て二時に起きて坐禅する生活だ。
「一処不住」で、定住する寺などはない。
持ちものといえば、リュックひとつだ。いつもリュックを背負ってどこにでも出かけていく。
どこに行っても、ぼくにはそこが道場になる。
そうなると、行ったところ行ったところで、どんなところでもありがたいんだ。

◎まことの道をほんとうに楽しんでひたりきる

ほんとうの自分を確立していないと、人がどうした・どう言ったで、ふらふらする。
信仰とは、「ああして下さい、こうして下さい。お願いします」と自分の欲心で神仏にお願いすることじゃない。
まことの道をほんとうに楽しんでひたりきるのが、信仰なんだ。
たましいの喜び、たましいの楽を求めなくてはいかん。

仏法ってね、生まれもっている真実を求めるところにあるんだよ。
この自分を、このたましいを、この生死の問題をどうするんだ。そこを究めていくことだ。
死んだら空っぽなの? 
さあ、どうするんだ!
——このぎりぎりの問題、大疑団を解決しなくちゃいかん。

うまく世渡りして生きていこうったって、それがなんになる。
金があっても、地位が高くても、なんにもならん。
みんな真っ暗やみの無明の世界にいる。迷いから迷いへと輪廻しているんだ。
その輪廻を根本的に断ち切るのが、仏法なんだよ。
なんぼ知識をためようが、それは所詮は「分別智」の世界なんだ。
ほんとうの智慧からみたら、役に立たない。

仏さんはね、自分一人のために法を説いて下さっているんだ。
仏さんに守られて、導かれて、やっと自分はここに存在するってこと。
でも、みんな外ばかりみているから、後ろから押してくれている仏さんの手に気がつかないんだ。

妙法蓮華経に照らされる

きょうは、「南無妙法蓮華経」について話そうと思うとる。
「南無」とは、仏さんの力に全部おまかせして、一生を預けきってゆくことをいうんだ。
自分を仏さんにぜんぶ差し上げてしまうということ。
そうすると、仏さんのほうから、自分を通して働いてくださるんだよ。

「蓮華」とは、純白の中の純白の光明。穢れのない、己れのない、澄みきった世界……。
一筋に自分をむなしくして、仏さんにゆだねきった坐禅のことをいう。
大悟とは、心が澄みきって己れがなくって、仏さんのほうから照らしていただくことをいう。
自分の愚かしさ、人間世界の愚かしさに気づかせていただく。己れの力ではないということを、はっきりと受けとらせてもらう。
その途端に、ぐぐっと大安心の世界に入るんだ。
すると、大悟徹底して過去世、現在世、未来世の三際をいっぺんに断ち切る、つまり輪廻を断ち切ることになる。

「一超直入如来智」といってね、凡夫のままに、いっぺんに仏さんの位に飛び込むよ。そういう坐禅が、妙法蓮華なんだよ。
そうなると、妙法蓮華を軸にして、すべてが回転していく。
そういう生活の筋道、真理の道行きを「経」という。

こういう世界を道元禅師さまは、お伝えになったんだ。
仏法は、自分をみることに尽きるよ。人を責めたりする暇なんてない。自分をよくみたら、むさぼる、腹たてるという煩悩ばかり。自分みたいなつまらん者に、いったいなにかできるかってことに、やっと気づく。
自分が人を助けるんじゃない、助けさせて頂けるんだ。
「ああ、ありがたい……」。そうして、「南無妙法蓮華経」とおもわず口に出るのが、ほんとの南無だよ。
どうしようもない自分が妙法蓮華経さまに照らされ、生かされ、なにかさせて頂ける。それが、南無妙法蓮華経ということなんだね。

◎どこにおろうが、そこが安楽国となる

「学道の人は最も貧なるべし」
と、道元禅師は言われた。ものをたっぷりもって、ゆっくり設備を整えて、それから坐禅でもしましょうか。そんなものじゃあない。
人間はおもしろいね。ものをもつほどに腐ってくる。ものがなければないほど、ぎゅーっと引き絞られて光り輝くよ。

村の中に 森の中に
はた海に はた陸に
阿羅漢 住みとどまらんに
なべてみな 楽土なり
            (法句経)

与えられたところが、すべて道場。
どこにおろうが、そこが安楽国となる。随所に主となる。

ほめられもせず 苦にもされず
そういうものにわたしはなりたい
             (宮沢賢治

ほめられもしない、苦にもされないデクノボーでいいんだ。
自分は一切ないのが、本来の坊さんのありようだよ。食った食わんじゃというのは、世間のこと。布施を頂くのは、仏さんに頂いて、仏さんのために使わせて頂く。衆生のために、坐禅の体を支えるためだけに頂く。
そういう心になれば、なべてみな楽土となるんだ。

上の写真は、ポーランドで座禅指導された時のもの。下と写真は、NHK心の時代のときのもの。