インドのベンガル出身でバラモンのスワルナーリさんと、インド哲学と仏教についてよくGoogleMeetでやりとりしている。
仏教はインドで誕生したわけで、そのベースにはインド哲学がある。
インド哲学は、かなり難解。なので、時折、スワルナーリさんとやりとりしては、教えてもらっているところ。
以下は、そのやりとりですこしずつ書いては整理していこうとしているところ。
turboscribeのアプリのおかげで、録画しっぱなしのGoogleMeetを、すこしずつテキスト変換しては、直したりしている。
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◉ヴェーダ
いろんなところの神々を集めると、たぶん同じ神の名前。
日本でいうと、たとえばスサノオとオオクニノミコトと牛頭天皇がおなじようなもの。場所によって呼ばれ方が違う。
地域によって神々は違う。やってること、しきたり、お寺の作り方は違う。坊さんもいろんな地域から集まっている。しかし、ヴェーダは同じ、変わらないという立場。ヴェーダは知恵という意味。
「リグヴェーダ」と「ウパニシャッド」はもっとも重要。ウパニシャッドは最後のまとめで、奥義書といえる。
こうした聖典は、ほとんど質問と答えで書かれている。先生と生徒、夫婦の間との質問・答えで、問題解決と哲学を教えてる。
インドのほとんどのものは質問・答えで書かれている。「バガヴァットギータ」にしてもそうだ。
だから、イントではディベートは重要。ディベートしながらそれを残すか残さないか、ということになる
仏教の経典も問答が主体。信徒とか弟子との問答、やりとりが経典になっている。
◉ヒンドゥー教の基本
ヒンドゥー教は「ダルマ」「カルマ」「アルタ」。そして「アーナンダ」。
「ダルマ」は、いわばプリンシプル。人間が「何をしなければならないのか」という原理。
人間としての義務。たとえば、家族の世話をする。コミュニティの維持、動物を可愛がる。環境をちゃんとまもる。それらは人間としての義務。
カルマというのは行動。この義務を果たすための行動を起こす。自分で行動を起こす。
カルマは、日本語では、業(ごう)と訳される。
仏教では、カルマ(業)は、身口意の三業(さんごう)をいう。身体で行ったこと、喋ったこと、思ったことがカルマになる。
ヒンドゥーでは、身と言葉のみ。心は入らない。しかし、言葉と身体は、かならず心から出てくる。なので、心こそが大切となる。
過去世での行為はいずれ必ず自分に返ってくる。いま自分の行ったことは、やがて自分に返ってくる。因果応報の法則。即、返ってくることもあるし。長い間かかって返ることもある。過去世のものが返ることもあるようだ。
ともあれ、いつ返ってくるのか、わからない。
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そのカルマのために何が必要かというと「アルタ」。
学問、知識、友人、土地、金、家畜、穀物、家財道具など。それらを増大させてゆく。
アーナンダとは喜び、楽しみ。至福。どんなことをやっても楽しんでやる。嫌々でやってはいけない。自分が幸せなら人、環境、動物、全部幸せにできる。全部楽しくやること
ダルマ、カルマ、アルタ。アーナンダ。これがヒンドゥーの基本の哲学。
普通の人にどういうふうにこの3つの基本をわからせるか。いろいろな段階がある。
頭が鈍い人々に教えるためには、形が欲しい。神々の形がほしい。いろんな神々がある。祈りを通して楽しくやる。儀式が必要。
で、もうちょっと発展した人々は本で読んで勉強する。聖典が大切となる。
で、その上はスピリチュアリティ。バクティ。全部捨てて、私が神様と一緒となる。
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◉バクティ
バクティはすべてを神に捧げること。
いろいろやり方がある。
バクティがある。ジャニヤーナ(瞑想)がある。カラムがある。カラムというのは自分で行動を起こすこと。
肉体的に行動を起こしたくない、やりたくない、嫌いな人はジャニヤーナで能力を高める。
それも嫌ならバクティ。神様に全部捧げる。どんな行動を起こしても、それは神様のためにやる。自分のためじゃないと考えてやる。
最終的にはバクティ。バクティっていうのは何でも集中してやること。ただ一つの自分の役目を果たす。料理を集中してやるのもバクティ。
「バガヴァットギータ」では、アルジュナは、ここで戦うか戦わないかどうしようか迷っちゃた。あなたはこれに集中しなさいとクリシュナが叱る。クシャトリア(武士階級)は戦うのが仕事。戦え、相手を殺せという。
みんな死ぬ。いずれ死ぬ。殺す人も殺される人もない。行為のみがあるのだとクリシュナは言う。