過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

ヒンドゥーと仏教の違い

ヴェーダンタ哲学(古代インドのヒンドゥーの奥義書)とブッダ教えは、インドの土壌において脈絡がある。インド人は、仏教やジャイナ教を、ヒンドゥーの大きな流れの一つ見ているところがある。
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インド人は、ブッダやマハーヴィラ(ジャイナの開祖)を、最高神であるヴィシュヌの化身と捉えていることがある。
近頃、シャンカラチャリヤ(8世紀 インド最大の哲学者とされる 不二一元論をとなえる)の書を読み始めると、初期仏教と相通じるものを感じる。
ヒンドゥー教えも仏教も、ともに生死からの解脱を説いているわけだ。
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まあ、哲学的な差異をここでは論じない。外面的なスタイルとして、ヒンドゥーの宗団と仏教の宗団では、どこがどうちがうのかをみてみたい。
私は、インドを旅してよくヒンドゥーのサドゥ(修行者たち)に出会った。インドでは、なにしろ何百万人(一説では5千万人)もサドゥがいるという。
ある者は一人で山中で瞑想、ある者は少数の弟子をひきつれ、ある者は千人規模のたくさんの弟子を率いていた。
風貌も威厳があり、なかなかかっこいい。しかし、近づいて語りかけると、とても気さくであった。12年に一度の大きな祭(クンブメーラ)に出くわしたこともある。
サドゥのテントを訪ねては、一緒に食事をしたり語り合ったものだ。12年間も片手をおろしたことはない、7年間も寝た(横になった)ことがないなどというサドゥにも会った。木に紐を吊り下げて、そこでゆらゆらと揺れていた。
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仏教徒ヒンドゥー教徒は、スタイルとしては、サフラン色(あるいはオレンジ色)の衣をまとっている。それ以外は無所有。
サドゥは髪とひげは伸ばし放題。
仏教教団は、頭は丸坊主。髭も剃っていた。
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ヒンドゥーのサドゥたちは、神々を礼拝する。アラティ、プージャ、など火を使った儀式が多い。火の中に神々を召喚して、供養するというのがヤッギャ、ホーマである。マントラを唱える。もちろんヨーガ、瞑想はメイン。
仏教教団はおそらく、神々を礼拝しない。マントラを唱えない(一部、パリッタというような護符・護呪のようなマントラはある)。ヨーガも瞑想もする。
肉食はしない。魚も食しない。生涯、独身でいる。
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瞑想のありようとしては、神々と一体となる、あるいは最高神であるブラーフマンと一体になるという瞑想法はしない。
ヴィパッサナー(観の瞑想)のように、瞬間瞬間の動作、感情、意識の生滅を観る瞑想(ヴァーバナ)は、仏教の独特な行法であると思う。
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両者はともに、輪廻からの解脱が目標である。
ただ仏教は、ブラーフマンやアートマンのような至高神を認めない。「自己のみを頼りとせよ」ということになる。