インド人のスワルナーリさんを訪ねた。よくお訪ねしては、インド哲学のエッセンス、世界情勢の話をするのであった。以下、雑メモから。
───インドでは、家庭でお寺で川の畔、日々プージャ(神への礼拝。火をともして讃歌やマントラを唱える)が行われていますね。信仰のありようが、日本とまったく深みが違うと感じます。
「プージャはworship(崇拝)じゃありません。神さま助けてください、神さま見まもってくださいじゃないんです。神は助けてくれないんです」
───ええ、そうなんですか。〝神は助けてくれない〟では、なんのためにプージャを行うんですか?
「プージャの目的は、神々の属性(attribute)を自分にいただくために行うの。神の力を身に着けるためですね。その力で、自分で自分を守るんです。マントラ(真言)を唱えるのもそのためにあります。
───なるほど。そうすると、日本の大乗仏教で言うと、〝観音様たすけてください〟じゃなくて、自分が観音様の力を身につけるためと。
そうすると、ガネーシャとかカーリーとか、いろいろな神の属性を選んでプージャを行うわけですね。
「そうなんです。神を選んで私たちはプージャを行います。たとえば、ガネーシャのプージャ。これは、先導する力、教育、障害物を乗り超える、リーダーの役割を身につけるわけです。
───そういうふうにいろいろな神様のプージャをするわけですが、なぜかブラフマン(ブラーフマン、ヴィシュヌ、シヴァという最高神、三位一体神のひとつ)はしませんね。
「そうブラフマンにはプージャはいません」
───それはなぜですか?
「ヒンドゥーの哲学のエッセンスは、〝アハン ブランマ スミ〟です。
〝わたしは、ブラフマンである〟に尽きます。
───その場合の、ブラフマンと自分との関係は?
「ブラフマンのサンカルパ(意思、宣言、目標、決意)が私たちなんです。いわば、私自身は、ブラフマンのprojection(投影)なんですね。ブラーフマンが自分というスクリーンにあらわれている」
以下、続く。