過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

天理教の教会を訪ねた

施設に友人がオカリナ演奏とチベット体操を教えに来てくれた。春野町に移住したいというので、利用者さんの家への送りのついでに、あちこちと空き家を案内する。
そのまたついでに、天理教の教会を訪ねた。空き家の情報を得るため。通りかかったので、ふとひらめいたわけだが。
訪ねるのは3度目。初めは4年前。二度目は、先月。いずれも、ふと通り過ぎて気になったからだ。
友人の祖母は天理教の信者だったというので、その話からはじまり、玄関先でいろいろ語りあった。以下、そのやりとり(池谷の主観が入っているけど)。
──お勤めの時間はいつからですか。そしてお勤めの目的は?
「朝も夕方もお勤めは6時半から。朝のお勤めは、目が覚めたことを感謝します。夕方は、一日の感謝をします」。
──なるほど。目が覚めたことに感謝ですか。目が覚めるのは、あたりまえに思っているけど、よくよく考えてみたら、みんな生かされているんですよね。
「生かされているんですね。このいのちは、神さま(宇宙とか真理といってもいい)から借りています。いのちは、神さまからの借り物。そのことを感謝します」。
──いまのコロナウィルスについては、どうとらえますか?
天理教では、身情(みじょう)と事情(じじょう)という言葉があります。自分の体に起きた、いろいろな不遇は身情です。コロナウィルスのような社会的な試練は事情です。それらは、すべて神のおためしとして、やってくるんですね。
──なるほど、事情ととらえますか。神のはからいであると。そうして、人は必ず死ぬわけだから、あわてふためくこともないのかもしれませんね。
「教えの基本は、死ぬのではなくて、生きどおしということです。いのちは神さまからお借りしているもの。それを最後はお返しするのです。そして、また新しいいのちとして、出直すということ。たいせつなことは、人は一列みなおなじ。互いに立てあい助けあい。陽気暮らしということです」。
わかりやすく説教がましくない、生きる日常の姿として腑に落ちている語りであった。神殿も整然として、清浄、静寂。心地よい空間であった。チベット仏教を学んでいる友人も、宗教は異なるけれども、内容はすべて通じるものがあると感心していた。