過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

きょうはメーダ・ミチカ(Medha Michika)さんとのいちりん楽座(GoogleMeet)。13時から。参加ご自由。
ゲスト:メーダ・ミチカ(Medha Michika)さん
池谷がインタビューしながら進めていく。
参加無料 どなたでも。下記をクリックするだけで参加できる。ただしGoogleのアカウントは必要。
https://meet.google.com/jwr-cfad-cui


主催しておりながら、池谷はサンスクリットにまったく詳しくない。参加される方々も、インドやヴェーダの哲学、サンスクリットに詳しい人は少ないと思う。
というわけで、生成AIで検索しながらまとめてみた。参考までに。


〈Medha Michikaさんのブロフィール〉
ミチカさんは、インド在住のサンスクリット文法家。アメリカでシステムエンジニアに従事。2006年からインドのアシュラムに住み、スワミ・ダヤーナンダ・サラッスヴァティに師事してヴェーダーンタを学び、サンスクリット文法を教えていいる。
サンスクリット文法の講座はウパニシャッド、バガヴァッド・ギーター、ヴェーダーンタサンスクリット、チャンティングの講座。


サンスクリット語とは〉
サンスクリット語は、古代インドを訪れたアーリア人によって伝えられた古代語。古代インドの文語。
バラモン教の儀式に使用されたヴェーダ語。古代インドの標準的文章語。
前4世紀ごろの文法家パーニニによって集成ー(整理、法則として秩序化)された。
洗練され・純粋で神聖な言葉という意味がある。
ヒンドゥー教大乗仏教、仏教、ジャイナ教などで使用されている。文学、哲学、学術、宗教などの分野で広く用いられていた。インド・ヨーロッパ語族のインド・イラン語派に属し、ギリシャ語やラテン語とも近い。
中国や日本では「梵語」と呼ばれる。悉曇文字ともいう。梵には「きよらか」の意味があり、サンスクリット語梵天ブラフマー神)によってつくられたという伝承がある。梵字は、ブラーフミー文字を漢訳したものでは「ブラフマー神の創造した文字」を意味する、仏教とともに日本に伝わった語彙の多くも、サンスクリット語に由来するものが多い。


サンスクリット語の歴史〉
古代インドの王、アショーカの時代に仏教の教えを残すために使われていた。サンスクリット語で記されていた経典は、仏教が国を超えて伝わっていく中で、各国の言葉に翻訳されていった。
サンスクリット語を理解した日本人としては、空海が最初だったと考えられている。空海は、密教を学ぶ基礎づくりを学んだ後、遣唐使で中国に渡り、恵果の門弟となって、金剛界胎蔵界系の教えを伝授されている。


ヴェーダについて〉
ヴェーダ」は「知識」を意味する。ヴェーダは、紀元前1000年頃から紀元前500年頃にかけてインドで編纂された一連の宗教文書の総称。バラモン教の根本聖典である。
ヴェーダ語は、バラモン教聖典において用いられた典礼言語で、サンスクリットの起源となる。
ヴェーダには、最古の『リグ=ヴェーダ』をはじめ、学問文書の「アーユルヴェーダ」、奥義書の「ウパニシャッド」、行法の「ヨーガ」、性愛書の「カーマスートラ」などがある。
ヴェーダ』の中でも最も古く、最重要視されているのが『リグ・ヴェーダ』です。『リグ・ヴェーダ』は賛歌集で、神々や自然に対する畏れや敬いの気持ちがこめられている。


マハーバーラタ
マハーバーラタ』は、紀元前4世紀~紀元後4世紀ごろに成立したサンスクリット語叙事詩。全18巻、約10万詩節からなる世界最大級のボリューム。ヒンドゥー教において最も重要な聖典の一つーつ。
西暦320年から550年頃まで栄えたグプタ朝の時代に成立したとされている。マハーバーラタには、『バガヴァッド・ギーター』という部分が含まれており、この詩の部分がインド哲学のエッセンスといえる。
あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。
行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならぬ。(『バガヴァッド・ギーター』)


ヒンドゥー教
ヒンドゥー教は、個人や預言者によって設立されたものではなく、神(ブラフマン)自身が源であると考えられている。
ヒンドゥー教の最初の教師は、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァの神。
ヒンドゥー教は、インダス文明の時代からインド及びその周辺に居住する住民の信仰が受け継がれ時代に従って変化したもの。ヒンドゥー教の原型は、アーリア人の司祭(バラモン)の儀式と『ヴェーダ』(神々への賛歌)を中心とするバラモン教(ヴェーダの宗教)と呼ばれている。
ヒンドゥー教の原型は、紀元前300年頃に形成され、4世紀のグプタ朝時代に発展、定着した。

〈インドの宗教〉
世界三大宗教の信者数は、キリスト教が23.2%、イスラム教が22.8%、仏教が14.3%。 
インドでは、ヒンドゥー教イスラム教、キリスト教シーク教、仏教、ジャイナ教ゾロアスター教などがある。
インドの宗教人口は、ヒンドゥー教が最も多く、79.8%を占めている。次いで、イスラム教が14.2%、キリスト教が2.3%、シーク教が1.7%、仏教が0.7%、ジャイナ教が0.4。

 

ミチカさんのブログから(池谷が適当にピックアップ)


 セーヴァー(सेवा [sevā])


セーヴァーというサンスクリット語の言葉は、ヴェーダが教える伝統的価値観をよく表している言葉であり、恩師であるプージヤ・スワミジが、私達全ての人に話す時にいつも強調されていた言葉です。
私自身も、ヴェーダーンタに出会ってから毎日、私のすること、書くこと、話すこと、考えることの全てが、全てのものへのセーヴァーでありますように、と考えながら生きています。


セーヴァーとは、与えられた状況の中で、貢献者として行動することです。
人間としての精神的な成長は、貢献者として行動することによってのみでしか得られません。
セーヴァーの姿勢とは、自分を取り巻く状況から、より利益を得ようとする消費者的な姿勢から、貢献者的な姿勢に変え、自分に出来ることは何かを考え、一歩踏み出して行動することです。
自分に出来ることは何かを考えるとき、基準となるのは、自分が相手の立場なら、と想像する、相手を思いやる気持ちです。


人間の心というものは、他の痛みを感じ取れるように出来ています。相手が人間であれ動植物であれ、相手の痛みを思い計り、痛みを取り除き、幸せを増やすのに役立つ行動を選びとることが、自分のすべきことであり、貢献者になるということです。
自分の本質を知らなければ、この身体この心でこの世界を認識している経験が絶

対となります。ヴェーダーンタの教えによって、自分の本質は完全な存在であると聞かされても、自分の心が精神的な成長を遂げていなければ、ヴェーダーンタの教えはただの難しい哲学のようなお話にしか聞こえず、今ここにいる自分のこととして理解できません。


与えられた状況を客観的に見て、自分に何が出来るかを考え、それを行動に移すことが貢献するということです。今目の前にある状況が与えられているのと同様、自分が持っているものも全て、与えられています。


私はコインバトールのグルクラムに移る前は、北インドにあるリシケシのダヤーナンダアシュラムにて、ヴェーダーンタサンスクリット語文法、そしてチャンティングの勉強するための生活をしておりました。当時のリシケシのアシュラムでは、「コース」といったクラスはありませんから、勉強したいのなら、自ら先生のところに行って、「私のためにクラスをして下さい」と直々にお願いするところから始めなければなりません。
私が頼んだからといって、先生が必ずOKしてくれるとは限りません。先生には既にいろいろするべきことがあるでしょうし、また、私のために教える時間をわざわざ作る価値があるのか、と思うかもしれません。実際、クラスをして欲しいと頼んだのに、実際クラスを始めてみると、一回も来ない人やすぐに来なくなるという人は多く、先生の時間を無駄にさせてしまうことは多々あります。


このようなことから、まずは、私を教えるための時間を捻出してもらうために、先生を無駄に忙しくさせている作業を見つけ出して、肩代わりさせてもらえないかお願いするところから始めていました。


それがきっかけで、クラスの準備として、教室を確保して掃除し、他の人を集めたり、書籍を手配したり、授業で使うサンスクリット語の書類を作ったり、校正作業をしたり、先生の代わりに簡単な英語やサンスクリット語を他の生徒に教えたりと、いろいろさせてもらうことが出来ました。


クラス開催のための先生への直接のセーヴァーだけでなく、クラスを可能にしてくれているアシュラムのセーヴァーとして、オフィスや図書館、本屋、テンプルなどを手伝ったり、アシュラム内や近隣に住んでいるお年寄りのお手伝いや、アシュラムへの訪問者のさまざまな遣いっ走りなど、さまざまな活動をさせてもらうことが出来ました。
セーヴァーをしていく上では、指示待ちではなく、自分から、この状況でどうすることが、ダルマに沿っていて、人々の幸せを増やすことが出来るのか?を自分の頭で考えることが要求されます。


このようなアプローチでの勉強環境の実現は、いろいろ大変だったかも知れないですが、より伝統的なアプローチであり、この勉強に対する必要なあるべき姿勢を体得させてもらう機会となったので、私はこのような環境で勉強を始められたことを、とても幸運に思っています。


プージヤ・スワミジは、セーヴァーという言葉の意味を、ヴェーダーンタのクラスを通して教えてくれただけでなく、スワミジの、思いやりそのものの生き方を通しても教えてくださいました。


その教えを受けて、実際に自分がリシケシのアシュラムで生活をしていて学んだことは、「他人がどうすべきか?」といったことは考えるだけ不毛なので、意識して一切考えないようにして、「自分が今ここで出来ることは何か?するべきことは何か?」だけを考えるようにすれば、生きていることが全く難しくなくなり、人生は充実したものでしかあり得ない、ということです。


自分が世界を見渡すとき、貢献者になろうとして自分と世界を見ていれば、難しいことや苛立たしいこと、不便さといったことはあっても、自分が不幸になることはあり得ません。「自分はこれだけ貢献しているのに、誰からも感謝されない」と嘆くのは、「相手は自分に感謝すべきだ」と、やはり「他人がどうすべきか」と考えている証拠です。
他人の言動に、自分の幸せを委ねているから、他人の言動を支配しようとしてしまうのです。自分が自分を肯定していないから、他人からの肯定的認証に心理的に依存するのです。


どれだけ多くのものに恵まれていても、本人が消費者目線で世界と関わっている限り、自分は不幸だと嘆くことになります。一方、たとえ傍目からは何も持っていないように見えても、自分が世界を見渡すときの姿勢が「ここで私が出来るセーヴァーは何か?」という貢献者的目線なら、「私は全てを与えられている」という事実に気づくことができます。


また私は、自分自身が先生方から受け取ったヴェーダーンタサンスクリット語の知識を教え継ぐ活動もしていますが、その活動の全ても、セーヴァーの精神によってのみ成り立っています。


私自身が、「教えないといけない」というプレッシャーを全く持っていないので、クラスの開催に関わる全ては、学びたいと真摯に願う人々によって、それだけでなくさらに、他の多くの人々にも学ぶ機会を提供しようとしてくれている、高尚な意思を持った人々によって運営されています。


これは、ヴェーダを発見したリシ達から、ヴィヤーサ、シャンカラーチャーリヤ、そして私の先生まで綿々と続く、グル・パランパラー(知識伝承の系譜)にある先生方の恩恵の表れに他なりません。


生まれや育ちに関わらず、どんな人でも出来る貢献が、祈りです。どんな健康状態でも、経済状態でも、くよくよ悩むことが出来るマインド持っている人なら誰でも、マインドひとつで出来るのが、生きとし生けるもの全ての幸福を願う祈りです。


祈りに必要なものは、たったひとつ、自分の自由意志だけです。マインドを使ってする行為も立派な行為です。自由意志を使ってされた行為は必ず結果を生みます。皆の幸せを祈ることによって、生まれや育ちに関わらず、いつでもどこでも誰でも平等に、社会貢献は出来るのです。


そしてその祈りを、言葉や行動へと表現していくのです。生きていることそのものが祈りになるのです。


競争をしなくても、自分の居る場所で、自分に与えられたこの身体この心で、誰でも貢献者になれるのです。そのスタート地点は、生きとし生けるもの全ての幸せを祈ることです。それは立派な貢献です。「私は毎日生きるもの全ての幸せを祈ることを日課としている人間です」という自己認識に勝る自己肯定はありません。そして、この身体この心をうまく使えれば、その祈りを、人々に届く言葉や行動へと表現することも出来ます。それはその人それぞれで、その表現方法に優劣はありません。