過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

電話でインド哲学入門

インドの友人とやりとりした。ベンガル州のバラモン出身だ。
たまに電話して、つねに哲学論議
世間話なし。いきなりトップギア
以下は、10分会話。こうして、ときどき電話して話すと、インド哲学入門講座ができるかなあ。
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──生きてる。元気?
「生きてまーす。モクシャ(解脱:永遠の安らぎ)は難しいよ。モクシャを得るためには、全世界のことをすべて知り尽くさなくちゃいけない。ものごとは、習い続けていく、学び続けていく。終わりがない。そして、そのことが楽しいのよ」

──モクシャってニルヴァーナ、解脱だよね。サッチダーナンダ(サット:真実、チット:気付き、アーナンダ:至福)ともいう。

「うん。モクシャはサッチダーナンダといえるけど、喜びもない。かなしみもない。なにもない。しかし、宇宙的な広がりがあるだけ。」

──広がりがあるだけって楽しいのかなあ。遮るものがあってこその広がりとエネルギー感。だから、この現実が、おもしろいともいえるし。
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「しかし、いつか死ぬ。」

──死んだらどうなるの?

「死んだら次がある。早く死ねば次が早く始まるじゃない。楽しみ。」

──でも、来世があるって、科学的にわからないことでしょう。

「わたしたちの哲学です。こうして生きている時、感ずるものがある。初めてなのに、ああここはなじみやすい場所。ああなつかしい人。あるいは、とっても嫌な人。そんなことあるでしょう。それって、過去世から引きずっているものがある。ヴァーサナ(熏習)といいます。」

──その意味では、子どもって過去世のことをわずかに覚えていることってあるよね。

「大人はいろいろ体験と知識が増えて、わかりにくくなっていく。ところが、子どもは、過去世の影響がある。3つくらいまでかなあ。過去世の反応が出てくる。しかし、4つくらいから、世の中のことをいろいろ教えるので薄まる。学校に行くと、余計いろんなものを教えられて、薄まる。
子どもの頃からテレビ見せたりゲームをやると、薄まる。おもちゃを与えすぎたらだめ。なんにもないほうがいい。まわりにモノがないほうがいい。暮らすのは田舎がいい。」
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──臨死体験した人って、花畑とか光の世界とか、三途の川とかいろいろ出てくるよね。

「それは、その人の生前の宗教的な価値観の反映。脳の反応だね。」

──生きるってことは、自分が積んできたカルマを遊ぶ、味わうとも言える?

「カルマは日本だと業と訳されて、いいイメージはない。でも、カルマって身口意のこと、善でも悪でもある。」

──カルマの語源って?

「カルからきているの。インドでは、明日もあさってもおんなじ。カル、カーラという。
シヴァのことをマハーカーラというでしょう。
永遠に進む。永遠の今。なにもないときからある。時間は止まらない。
過去は終わっていない。進み続ける。
シヴァとはずーっと動いている。ダンスし続けている。」
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──なるほど。すべては始まった瞬間に終わる。そしてまた始まる。終わる。そのくりかえし。

「そうなの。それをサッチャン・シヴァン・スンダラムというの。
サッチャン(Truth:本質、事実)
シヴァン(Stability:安定性)
スンダラム(Beauty:美しい)

──じゃあ、またその続きは明日、またやりとりしましょう。
「日本人にインド哲学を教えるのって、とっても難しいの。そもそも物事の本質を深く哲学的に考えるっていうところがないんだもの。」

──そうだね。日本人ってきめられたことをきちんとやるとか、まわりの空気を読んでちゃんとやるとか、相手のことをいろいろ考えすぎてしまうとか。でもって本質的なところは、他人まかせというのはあるね。
ま、ともあれ、時々、やりとりして、ぼくがまとめてインド哲学入門をつくろうとおもうので、よろしく。

「はいね。またね」