過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

浄土真宗のお坊さんとの対話③真俗二諦論

浄土真宗のお坊さんとの対話③

天皇阿弥陀仏というのは本地垂迹説のようなもの

天皇阿弥陀仏は一体。天皇阿弥陀仏阿弥陀仏天皇という表現は刺激的すぎるかも・・・」

──じゃあ、どんなふうに?

天皇は“現人神”(あらひとがみ)だから、阿弥陀仏の化身、垂迹ってところでしょうか。いわゆる本地垂迹説に基づいたもの。」

──なるほど。「本地垂迹説」というのは、平安時代にできた考え方ですね。本地は仏だけれども、姿としては神として現れる。戦時中においては、「神本仏迹論」があらわれて、神が本体で、仏が垂迹というものもあらわれた。

◉真俗二諦論

「そうですね。そして、戦時教学の背景は、江戸・明治以降の“真俗二諦論”です。元々仏教にはそういう考えはあったのですが、真諦=仏法、俗諦=世法(王法)で、どちらも正しいという説です。王法とは、俗世間における法律・慣習一般をいいます」

──そのあたりは、浄土真宗を拡大布教した蓮如など「王法為本」などと言っていますね。

「はい。蓮如師は“王仏二本”とも言われました。蓮如師が作られたとされる旧領解文の〈このうへは定めおかせらるる御掟(おんおきて)、一期をかぎりまもりまうすべく候ふ〉の、御掟を王法と「読み替えた」のも戦時教学と絡んできます。」

──蓮如が「王法を大切にせよ」と言ったのは、一向一揆のたいへんなに盛り上がりで、この勢いをセーブしないとたいへんなことになるというあたりから、だと思います。
「まづ王法をもつて本とし、仁義を先として、世間通途の義に順じて、当流安心をば内心にふかくたくはへて」(『御文三帖十二』)。もっとも、「王法は額にあてよ、仏法は内心に深く蓄えよ」(『蓮如上人御一代聞書』)が本音と思いますが。

◉加賀の一向一揆

「一四八八(長享二)年、加賀の一向一揆は、北陸一帯の門徒農民と連合して富樫氏と戦い、二〇万余の一揆軍はその居城を包囲。一向一揆は加賀一国を制圧。約一世紀にわたって、“百姓の持ちたる国”が続いたんですね。一向一揆は、さらに越前、越中能登、飛騨の各国にひろがり、戦国時代末期には、近畿、東海に及びました。」

──100年間も、封建領主がいなくて、自治が続いたってことはすごいですね。世界史でも類例がない。

「まあ、表向きはそうですが、元々は富樫一族の「跡目争い」だったようです。
富樫政親(本願寺門徒が応援)vs兄弟?(高田専修寺門徒が応援)。勝った政親が城主になって、北陸は高田派門徒が壊滅。後に「言いなりにならない」政親を自殺させ、百姓の持ちたる国へとなりました」

──なるほど、いろいろ探求していくと、「実は」ということがたくさんありますね。

「はい。織田信長の「楽市楽座」は、石山本願寺寺内町の繁栄をヒントに今でいう「規制緩和!?」した政策だそうです・・・。」

──学ぶこと、たくさんありますね。楽しいです。さて次はまた、「新領解文」にもどって論議していきましょう。