過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

自分でお経をよんで母を送る

なにしろ自分でお経をよんで母を送るという、まれな葬儀でした。喪主である自分が母をおくるのが、自然でありふさわしいことだと、かねてより思っていました。生前、母にも伝えていました▲母のことを何も知らないお坊さんがやってきて、訳がわからないお経をよんでもらう。それではあまりに、つまらない。ときには、あれれ、大丈夫かなぁ? というお坊さんがくるかもしれないしね。

読む人の心のあり方がもっともたいせつ。なので、お経でなくても、詩でも歌でも祝詞でもいいと思います。しかし、心情的には日本では葬儀はお経がふさわしいと思われているので、その流れでおこなうこととしました▲ぼくは、だいたいほとんどの宗派のお経をよむことができます。ということで、『法華経』とお題目のあとに、ハンディのオルガンを演奏しながら、インドのお経もよみました。こちらのほうは、堅苦しい日本のお経とちがって、ずいぶんと旋律が美しいです。

そもそもお経は、インドで成立したときから、歌うような旋律があったはずです。インドにおいて数千年にわたってよまれつづけているお経(スートラ)には、うつくしい旋律があります。インドに行くと、そのことがよくわかります▲ところが中国経由で漢訳化されて日本に伝わると、旋律が消えてしまいました。また、日本にあっては、はじまりが国家仏教でしたから、権威あるように見せるために、重たくて仰々しくなったのだと思います。

ともあれ、わたしは音の響きを大切にしています。たいせつなのは、思いを込めて心を込めて、声を響かせる。音の響き、声の響き、それによって参列者のみなさまの心も静まる。参列者の思いが、故人に伝わっていくのだと思っています▲はじめて聴く人ばかりだと思いますが、参列者のみなさんには、それほど違和感はなかったと思います。二人の姉たちも親戚の方たちも、とても安心したようでした。