近所のひとり暮らしのおばさまのところにあかりを連れて挨拶に。おあがんなさいというので、上がらせてもらう。
ぼくは他人の家を訪ねるときには、仏壇があれば、正座してチーンとの合掌、回向文を唱えることにしている。
山里に移住してから、こちらの亡くなったご主人には、ずいぶんとお世話になった。炭焼き窯を作るときには、ユンボでの土木工事など助けていただいた。亡くなる半年前のことだった。その故人の一昨年の葬儀はお寺で行われ、お坊さんは8名もこられた。戒名もいちばん立派なものだ。
家に上がり込んでお菓子を頂いていると、そこにお坊さんが現れた。ちょうどお盆で、檀家参りをしているのであった。あかりを膝に乗せて、うしろについてにお経に参加させてもらおうとしたが、むずかしい。禅宗の供養のお経の半分は光明真言やら普礼真言。あとはよくわからない。
曹洞宗は道元禅師の只管打坐(しかんたざ)が修行の真髄だが、後の螢山禅師の頃から、他宗派を取り込んでいく。真言や天台の寺、修験道の拠点や霊山なども曹洞宗の傘下になる。たとえば豊川稲荷、とげぬき地蔵、恐山なども曹洞宗だ。その際、加持祈祷や民間信仰も混ざっていったのだろう。
しかし、なぜに供養に真言や呪文めいたものが……。ふだん話すことのない「異言」こそが死語の霊界につながる響きであり、真言や呪文が効果があると信じられてきたからであろうか。プロの僧侶が、なにかありがたそうで意味の分からない呪文めいたものを唱えてくれる。それは死者につながる響きと思われてきたのだろうか。
ということで普通、お坊さんについてお経に参加する人はまずいない(真宗はのぞいて)。なにしろむずかしくて唱えられない。意味もわからない。供養の専門はお坊さんであり、そちらにおまかせ。こちらは、場を整えてお布施を差し上げればいい。そんな感じかな。
ぼくが思うには、故人の供養の要は、遺族にこそある。自らが供養することがたいせつ。故人を偲ぶ、先祖のことに思いをいたすことが大切。お経や呪文など、二の次でいい。お坊さんにきてもらう必要だってないのだ。
またお坊さんは、たんにお経をよんでおしまいというのではなくて、供養の心得など、檀家に伝えらればさらにいい。