過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

支え合う・助け合う・分かち合うネットワーク。仲間づくり。これが最大の資産となる。

いよいよリアルに危機がやってくるか。これまで未体験のもの。
なにがいつの時期に、どのようににやってくるのか、わからない。
とにかくリアルに来そうだ。
これまでの生き方は根本的な変わらざるを得ないかもしれない。
「遅れた者が先になり、先の者が後になる」(イエス
食糧危機とエネルギー危機。肥料価格は倍になった。
エネルギーは高騰する。イギリスやドイツなど、数倍から10倍になっているとも聞く。
円安は進む。輸入品は高くなる。背景は、コロナ禍とウクライナの戦争。その他、いろいろ起きてくることだろう。
ではどうしたらよいか。
〈自給自足 ここは山里のゆえだ〉
①なんといっても主食は米。来年から田んぼを再開するぞ。機械もあるし。人手だけ。
②畑で野菜、大豆、麦、芋、かぼちゃなどを作るぞ。
③鶏を飼うぞ。これかニワトリ小屋づくり。卵が食べられる。肉が食べられる。鶏糞は肥料に。
〈自前のエネルギーだ〉
④井戸を掘るぞ。川の近くだから、掘れば出てくる。経費10万円と見ている。
⑤暖房は薪ストーブにする。といっても、ステンレスの安いやつ。5万もしない。燃やす木は、ふんだんにあるのだから。
〈資産はないにしても、持っているのはなにがいいか〉
⑥山や農地に価値が生まれる。買っておく。もらっておく。
⑦ますます円安。さらにドルを支えているのが円だから、ドルが下がれば円はさらに下がる。
⑧有事には金が強い。しかし金は税金がかかる。
⑨仮想通貨(ビットコインなど)を持っているがいいのか。
結論:⑩支え合う・助け合う・分かち合うネットワーク。仲間づくり。これが最大の資産となる。

91歳の現役の鍛冶屋さん

91歳の現役の鍛冶屋。片桐保雄さんを佐久間町に訪ねた。
今月出版する「過疎の山里に暮らす普通なのに普通じゃない90代」(すばる舎発刊)の最終原稿確認のためだ。
「この手で77年間、鉄をぶっ叩いてきたんだ。まだ、いくらでも仕事はできるぞ。
でもなあ、足腰が弱って思いようにならん。それと惜しいのは後継者がいないことだ。弟子がいれば鍛えてやるんだが、ぼくの代で終わりだ。とにかく鍛冶屋仕事は楽しいぞ」。
片桐さんは91歳。14歳から家業の鍛冶屋を77年つづけてきた。
いまも現役。休みはない。毎日仕事している。
地金づくり、研ぎから、販売までひとりでこなす。
30年前に妻が亡くなり、ずっとひとり暮らし。
仕事場を見せてもらう。半製品の鉄の素材をみていると、味わい深い。

 

 

 

 

ライシャワー「対日政策についての覚書」

ライシャワー真珠湾攻撃の翌年、1942年9月、米国戦争省に提出した「対日政策についての覚書」を紹介する。

この提言は、戦後の日本の占領政策の基本的な理念を示している。

当時、ライシャワーは当時31歳。ハーバード大学極東言語学部の講師。日本生まれ、日本育ち。日本の歴史や文化にも造詣が深い。妻(結婚したのは戦後)も日本人。60年安保のあと駐日アメリカ大使を務めた。

ライシャワーが当時31歳の青年であり、真珠湾攻撃の翌年の提言であることに、驚く。

あたりまえだが、戦争するに当たって大切なことは、敵国の文化背景・相手の人間の心情をよく理解すること。戦争に勝利した後には、いかにして統治していくかという政策がなければ、ならない。
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提言のポイントは以下。

①日本の占領統治のためには、日本の天皇を傀儡(パペット)にしていくのが最も効果的だ。だから、この戦争で天皇に汚点がつかないようにしておくのがいい。

②日本はこの戦争を戦争を黄・褐人種の白人種からの解放のための聖戦としようとしている。それが半ば成功している。日系人を隔離することは、そのプロパガンダにのってしまうことになる。ゆえに、日系人の部隊を作りヨーロッパ戦線に投入するのがよい。日系人負の遺産ではなく、資産にするのだ。

この戦争はアジアにおける白人優越主義を温存するための戦争ではなく、人種にかかわらずすべての人間にとってよりよい世界を樹立するための戦争である。それを示すもっともよい証拠となるのだ。

以下、原文を抜粋して少し編集した。
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日本人は極度に自尊心が敏感で、強度に民族主義的な人民(nationalisticpeople)である。戦争に敗北することは、日本人のなかに残っている数少ない自由主義者さえ、幻滅に落とし込む。
日本人の善意や協力は何の価値ももたないと多くのアメリカ人は信じている。しかし、日本の人民の協力なしには、この地域に健全な政治的・経済的状況を作り出すことができない。

戦争終結後、我々の価値体系の側に日本人を転向させるにあたって、大きな困難の一つは、敗北の重荷を転嫁する適当なスケープ・ゴートが存在しないことだ。ドイツとイタリアでは、ナチ党とフアシスト党が、さらに有り難いことにヒトラームッソリーニという全体主義体制をひとまとめに象徴してくれる人格が、最も都合の良いスケープ・ゴートの役割を果たしてくれる。敗北したドイツ人とイタリア人は、独裁党政権を解体し、現在の指導者を追放することができる。邪悪な指導者が悪かったのでそのために敗北したのだと、自分たち自身を納得させることができる。

日本ではこのように指導者に責務を転嫁することによって、(人民の)面子を救うことはできない。なぜなら、すべての人民が天皇には責任がないことをよく知っている。日本では現実の指導層はむしろ匿名的な権力使用を常習としており、責任を取らせる政党は存在せず、スケープ・ゴートの役を演じてもらえるような傑出した個人はほとんど見当たらない。

第一歩は、喜んで協力する集団を我々の側に転向させること。いわば傀儡政権ということになる。日本それ自身が我々の目標に最も適った傀儡を作り上げてくれている。それは、我々の側に転向させることができるだけでなく、素晴らしい権威の重みをそれ自身が担っている。それは、日本の天皇だ。

天皇自由主義者であり内心は平和主義者であると考えてもよい。天皇国際連合と協力する政策に転向させることが、彼の臣民を転向させることよりも、ずっと易しい。天皇が、おそらく天皇のみが、彼の臣民に影響を与え、彼らに現在の軍部指導層を弾劾するに至らせることができる。

戦争終結の後の思想戦のために、天皇を貴重な同盟者あるいは傀儡として使用可能な状態に温存するためには、現在の戦争によって汚点がつかないように、我は彼を隔離しておかなければならない。新聞やラジオで天皇を広く冒涜することは、戦後の世界において我々にとっての彼の利用可能性を容易に損なうことになりかねない。報道波及機関に対しは、裕仁への言及をできるかぎり避けること、むしろ東条あるいは山本、さらには滑稽な神話的人物ミスター・モト──軍服姿で──を現在わが国が戦争状態にある敵国日本の人格的具現として使用するのがよい。

第二の点は、アジアにおける抗争の間人種的側面に関わるものだ。日本は国際連合に対する戦争を黄・褐人種の白人種からの解放のための聖戦としようとしている。日本のプロパガンダはシャムや東南アジアの植民地、そして中国の一部でさえ、ある程度の成功を収めている。日本人はアジアにおける闘争を全面的な人種戦争へと変換することが可能であるかもしれない。

我々は意図せずに日本の危険なプロパガンダに手を貸してしまっている。日本人を祖先にもつアメリカ市民を米国籍をもたない日本人とともに西海岸から移動させることは、緊急の軍事的配慮からみて、必要な行動であったことは疑いを容れない。しかし、白人種はアジアの人びとを白人と平等とはみなさず、未だになお差別し続けているという見解にアジアの人びとを賛同させようという日本人に、これは強力な論拠を与えることになってしまった。

今次の戦争はアジアにおける白人優越主義を温存するための戦争ではなく、人種にかかわらずすべての人間にとってよりよい世界を樹立するための戦争であるということを示すためには、(日系アメリカ人による)合州国に対する誠実で熱意に満ちた支持ほど優れた証拠はありない。

日系アメリカ人がわが国の側で志願しかつ喜んで戦ったという事実ほど、今次の戦争は、民族としての日本人を破るためのたんなる戦争ではなく、彼らの軍閥が仕掛けた野蛮な企みを撃破して日本を国際協力の価値体系に引き戻すための戦争なのだということの、日本の人びとに対する証左になる。

日系アメリカ人を(わが国にとっての)負債ではなく資産にするためには、最も有効な方法のなかには、彼らに軍隊に参加することを薦め、政治思想の訓練さらには戦後、軍隊であろうと民間であろうと、必要になるであろう専門技量の訓練を彼らに授けること。日系アメリカ人と彼らと一緒に任務につくことを欲する他のアメリカ人とを併せて、ヨーロッパおよびアフリカ戦線での戦闘の任務を担う特別志願兵部隊を組織することは難しくはない。

戦闘部隊に多数の日系アメリカ人を含めることは、日系アメリカ人社会全体の士気を高め、合州国に対して日系アメリカ人社会の忠誠を確保するための役にたつ。さらに重要なことは、太平洋の戦争が終わった際にこのような部隊は、我々と我々の軍隊に対する日本の人口の敵意を弱めるための、掛け替えのない資産になる可能性がある。

十万人の日系アメリカ人、さらに日系アメリカ人軍人が、国際連合の理念に喜びかつ積極的に参与することを、アジアの平和を勝利するためのこの偉大な闘争において、例外的な戦略上の有利さへと変換することが可能である。

1941(昭和16)年9月14日
エドウィン.O・ライシャワー極東言語学科教員@ハーバード大学酒井直樹訳)池谷が一部、抜粋して編集。
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このようにして、戦後、天皇は占領軍の傀儡(パペット)として、見事に演じきった。

占領軍は、天皇を象徴として、生かしておくことで日本を統治した。軍国主義日本にならないために、憲法9条戦争放棄・戦力不保持にした。

言葉をおぼえることを楽しめればいい。

言葉をおぼえることを楽しめればいい。
ことばがひとつわかると、世界が広がる。
世界が微細に、そして明確になっていく。
そして、人に対して意思をつたえるのは、ことばがとっても有効だ。
だから、ことばをおぼえよう、ということにしている。
「辞書をひく」というよりも「辞書と戯れる」のがいい。
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おとうちゃんは、辞書は必ず赤線を引いてボロボロにするやり方。だが、あかりのマイブームは、国語辞書に付箋を貼っていく。
子どもって、シールとかなにかを貼るのが好きだから、それとワンセット。昨日から今朝まで200の付箋を貼った。
「おとうちゃんきてー」。なんども呼びつけられる。
「ワッフル」ってなあに。ということから、アイスクリーム作りが始まる。
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「わりざんでなあに?」
──それは説明が難しいなあ。いま九九をやっているよね。にさんがろくは、おぼえたよね。
で、そのろくというのは、2の3倍。あるいは、3の2倍ということだよね。というふうに計算するのが割り算だよ。
「ふうん。わからないけど、まあいいや」
──あのね、あかりちゃん。新しい言葉を覚えるよりも、自分がわかっている言葉を、辞書で確認するってというのがいいよ。
というのが朝の会話。いま九九の早口やってる。

あかりの不登校は深く決めているようだから

やはり、あかりの不登校は深く決めているようだから、校長と担任の先生に文書を出すことにした。以下、たたき台。
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池谷あかりの父です。
あかりは8月31日より、不登校といたしました。

先生は、9月1日に、お訪ねくださりありがとうございます。

お話の中で、あかりは「とりあえず行ってみます」という流れになりましたが、その後、やはり「行きたくない」となりました。

あかりは、「もう学校に行かない」と決めているようです。
行かない理由は「自分の時間が奪われてしまうから」ということのようです。
一斉に学ばされ、時間を拘束されるのが嫌だと言っています。
もっと遊びたい、自分の興味のあるものを深めたい、と。

というわけで、不登校の理由は、「無気力」でもありません。「いじめ」でもありません。「身体的な病」でもありません。
いわば「積極的自宅学習」を選んだということです。
親としては、その道もありかなあと思っています。

家では、算数を学び、国語辞書を引き、絵本を10冊くらい毎日音読しています。きょうは国語辞書を引く楽しみを覚えて、付箋を張りながら言葉を覚えるのを楽しんでいます。
「うんこドリル」も気に入っているようで、すすんでやっています。

ただ、子ども同士の遊び、仲間との連帯などの人間関係は、子ども時代にとても大切なことで、そこは心配するところです。親、あるいは大人と自分という関係性だけ、かまってもらうのは当然だという意識になってしまいますので。

たとえば体育だけとか、一日一時間だとか、あるいはフリースクールに通わせるとか、いろいろな可能性を見ています。

そこで、今後の方向です。

わたしの経営している「みんなの家」は通所介護施設(デイサービス)であり30畳以上の自由空間(フローリングと畳)があります。

施設は、妻の手術の回復のため、7月から休業に入りましたので、この施設を子どもの自由な遊び場、学びの場にしていくつもりです。
施設内に、私設図書館を作り、定期的な講座、講演会、コンサートをひらきます。

たとえば、7月の鶏を解体して料理する集いには、まちなかから53名の親子連れが来ました。とくにまちなかの子どもたちは、春野の豊かな自然がうれしいようです。そして、子どもを見守りながら、親同士の交流を図ることができました。

そのような企画を、毎月開催していきます。

また、地域のお年寄りも気軽に寄れるような公民館的な機能を作っていきます。
買い物支援のマックスバリューも毎週来てくれますので、それをきっかけに団らんの場にも。

ただ、子どもゆえに気持ちはころころ動きますので「学校に行きたい」というときには、行かせます。「行ってもいい、行かなくてもいい」というスタンスです。

できるだけ自分で学習していくように導いていきます。
また、家事(料理、片付け、畑仕事、来年には田んぼ)にも関わらせます。

私は仕事が本の執筆と編集、妻は事務処理ということで、つねに施設にはおります。あかりも一緒に過ごすことになります。そしてまた、スタッフ(50歳 男性)がよく遊んでくれます。さらには、徒歩2分のところに別棟があり、そこには姉(28歳)がいますので、夕方はそこに遊びに行きます。

ともあれ、時代は大きく変わっていきます。
コロナ禍とウクライナの戦争のきっかけから、経済は大停滞に向かうことでしょう。

こないだコメリに行きましたら、肥料は2倍になっていました。どこまで値上がりするのかわからないと言っていました。ベニヤ板も2倍。工務店に聞くと、材木の入手が難しくなったといいます。

円高で140円台。ガソリンも高騰。イギリスでは電気代が10倍、ドイツでもガス代が5倍。そのうち、来年あたり食糧危機になるかもしれません。サバイバイルの時代です。そのために、畑をやり田んぼを作り、井戸も掘る。かまども作る。

いまそういうことに立ち向かうことが、きわめて大切なことと思っています。子どもに教えながら、生きぬいてていくことにいたします。

そのようなことで、いろいろご心配をおかけして、煩わしいことをお願いしてしまいますが、今後も、見守りくださいますようお願い申しあげます。

関東大震災が起きたのは、99年前の9月1日

「歴史は繰り返す」。戦前からの歴史を探求している。以下、Wikiをもとにまとめてみた。

関東大震災でいかに甚大な被害があり、その後の経済停滞から、戦争に入っていったのか。

うわさ、風聞、マスコミがとりあげることで、朝鮮人の大虐殺が起きた。普通の住民が、朝鮮人の住居を襲って殺す。そういうことがあったという事実。
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関東大震災が起きたのは、99年前の9月1日。
1923年(大正12年)9月1日11時58分32秒。190万人が被災、10万5,000人あまりが死亡あるいは行方不明になったと推定(犠牲者のほとんどは東京府と神奈川県)。建物被害においては全壊が約10万9,000棟、全焼が約21万2,000棟。
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政府機関が集中する東京を直撃して国家機能は麻痺した。
東京朝日新聞、読売新聞、国民新聞など新聞各社の社屋も焼失。震災当時、通信・報道手段としては電報と新聞が主なものだった(ラジオ放送は実用化前]、電話も一般家庭に普及していなかった)が、当時東京にあった16の新聞社は、地震発生により活字ケースが倒れて活字が散乱したことで印刷機能を失い、さらに大火によって13社を焼失、報道機能は麻痺した。

唯一残った東京日々新聞の9月2日付の見出しには「東京全市火の海に化す」「日本橋、京橋、下谷、浅草、本所、深川、神田殆んど全滅死傷十数万」「電信、電話、電車、瓦斯、山手線全部途絶」といった凄惨なものがみられた。同3日付では「横浜市は全滅 死傷数万」「避難民餓死に迫る」、4日付では「江東方面死体累々」「火ぜめの深川 生存者は餓死」、「横浜灰となる あゝ東京」などという見出しが続いた。

新聞紙上では「東京(関東)全域が壊滅・水没」「津波赤城山麓にまで達する」「政府首脳の全滅」「伊豆諸島の大噴火による消滅」「三浦半島の陥没」などといった噂やデマの情報が取り上げられた。
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震災発生後、混乱に乗じた朝鮮系日本人による凶悪犯罪、暴動などの噂が行政機関や新聞、民衆を通して広まる。民衆・警察・軍によって朝鮮人、またそれと間違われた中国人、日本人(聾唖者など)が殺傷される被害が発生した。

内務省警保局、警視庁は朝鮮人が放火し暴れているという旨の通達を出していた。戒厳令を受けて警保局(局長・後藤文夫)が各地方長官に向けて以下の内容の警報を打電した。

「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於て爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於て充分周密なる視察を加え、朝鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし 」
く新聞のみが唯一のマスメディアだった。記事の中には「内朝鮮人が暴徒化した」「井戸に毒を入れ、また放火して回っている」というものもあった。こうした報道の数々が9月2日から9月6日にかけ、大阪朝日新聞東京日日新聞・河北新聞で報じられている。

被害者は、吉野作造の調査では2,613人、上海の大韓民国臨時政府の機関紙『独立新聞』社長の金承学の調査では6,661人。犠牲者を多く見積もるものとしては、大韓民国外務部長官による1959年の外交文章内に「数十万の韓国人が大量虐殺された」との記述がある。

戒厳令発布、自警団による暴行。軍・警察の主導で関東地方に4,000もの自警団が組織され、集団暴行事件が発生した。朝鮮語では語頭に濁音がこないことから、道行く人に「十五円五十銭」や「ガギグゲゴ」などを言わせ、うまく言えないと朝鮮人として暴行、殺害した。

埼玉県の本庄町(現本庄市)で、住民によって朝鮮人が殺害される事件が起きた(本庄事件)。同日、熊谷町(現熊谷市)、5日には妻沼町でも同様の事件が発生している。

暴走した自警団は警察によって取り締まられ、殺人・殺人未遂・傷害致死・傷害の4つの罪名で起訴された日本人は362名に及んだ。しかし「愛国心」によるものとして情状酌量され、そのほとんどが執行猶予となり、残りのものも刑が軽かった
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陸軍の中では、震災後の混乱に乗じて社会主義自由主義の指導者を殺害しようとする動きもみられた。

甘粕事件(大杉事件)では、大杉栄伊藤野枝・大杉の6歳の甥橘宗一らが憲兵隊の甘粕正彦らに殺害され、亀戸事件では、労働運動の指導者である平澤計七ら13人が亀戸警察署で近衛師団に属する習志野騎兵第13連隊に銃殺され、平澤は斬首された。
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こうした流言の存在をきっかけとして、前内閣では廃案となった司法省作成の「過激社会運動取締法案」の代わりに、7日には緊急勅令「治安維持の為にする罰則に関する件」(勅令403号)が出された(この時の司法大臣は、前日まで大審院長だった思想検事系の平沼騏一郎、枢密院議長は司法官僚の清浦奎吾)。
これがのちの治安維持法の前身である。
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金融の停滞で震災:手形が発生し、緊急勅令によるモラトリアムを与えた。復興には相当額の外債が注入されたが、その半分は火力発電の導入期にあった電力事業に費やされた。モルガン商会は1931年(昭和6年)までに占めて10億円を超える震災善後処理公債を引き受けたが、その額は当時の日本の年度別の国家予算の6割を超えるものだった。引受にはロスチャイルドも参加した。金策には森賢吾が極秘で奔走した。

日英同盟のころから政府は資金繰りに苦慮していたが、特にこの復興事業は国債社債両面での対外債務を急増させた。また震災不況から昭和金融恐慌(1927年(昭和2年)3月~)、1930年(昭和5年)に行われた金解禁は世界恐慌(昭和恐慌)に至る厳しい経済環境下で悪影響が大きかったため、翌年には金輸出(再)禁止になった。

第一次世界大戦終結後の不況下にあった日本経済にとっては震災手形問題や復興資材の輸入超過問題などが生じた結果、経済の閉塞感がいっそう深刻化し、のちの昭和恐慌に至る長い景気低迷期に入った。

震災直後の7日には緊急勅令によるモラトリアムが出され、29日に至って震災手形割引損失補償令が出されて震災手形による損失を政府が補償する体制がとられたが、その過程で戦後恐慌に伴う不良債権までもが同様に補償され、これらの処理がこじれ、1927年には昭和金融恐慌を起こすことになる。
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以下歴史をみてみる。
この1年後の1925年に「治安維持法」成立。
1930年 統帥権干犯問題
1931年 満州事変
1932年 満州国建国宣言/5.15事件
1933年 国際連盟脱退
1936年 2.26事件
1937年 盧溝橋事件(日中戦争勃発)
1938年 国家総動員法公布
1940年 大政翼賛会発足
1941年 日本軍、南部仏印進駐/ハル・ノート真珠湾攻撃

岸の自邸の隣が統一教会

歴史の現場にいた人から話を聞くのは、じつにおもしろい。

岸信介と立ち話をしたことあるよ」
──へぇぇ、それはびっくり。
「いや、話といっても大した会話じゃなくて、わしは警備していたものだから、そのやりとりだよ」

ふと思い立って、取材の仕事の帰り、木下恒雄さん(88歳)をお訪ねした。
木下さんは郷土史家で、著書は30冊くらいある。いまも、執筆中だ。高校まで春野町で過ごし、東京の池上で警察官をしていたのだった。

──たしか、岸は高峰三枝子(女優)の家を借りて、そこを自宅兼迎賓館として使っていたんですよね。
「そう。高峰三枝子の家。それで、芝生が一面に敷き詰められていて、岸は薔薇が趣味で、たくさん植えられていたよ」

──そうでしたか。で、木下さんは、警察官として警備にあたっていたわけですね。
「そういうことだ。警備はたくさんいたよ。なにしろ、安保闘争で死傷者が出た時代だから、わしらはヘルメットを枕にして芝生に寝泊まりしていたんだ。それで、たくさんの警官が寝るものだからも、芝生がぺしゃんこになってしまった。

その岸の自宅というのは、東京都渋谷区南平台にあった。その隣にあったのが、『全国高校連合原理研究会』。そう、統一教会だ。統一教会は、1964年、岸のいた建物を借りて本部にしたのだった。

岸は、統一教会とも創価学会とも、深い結びつきがあった。その背後にはアメリカの占領政策があるわけだが、別の機会に書く。

 

──なにしろ全国的な安保闘争の渦中ですからね。岸邸も攻撃される恐れがあったんでしょうね。安保闘争といえば、全学連主流派は、国会突入したですよね。

「そうなんだ、その時期だよ。わしは、その時、全学連から国会をまもるという仕事だった。

──いのちがけでしたね。どういう守り方をしたんですか。
「ガタイが大きくて柔道の強いものが、前列にいる。そして、剣道の強いものが盾で叩くというやり方だった。

──国会構内で警官隊と衝突、東大生の樺美智子さんが亡くなったんでしたよね。
「そうなんだ。全学連は、機動隊が樺さんを殺したと主張している。しかし、ものすごい人数で国会に乱入したものだから、樺さんが倒れた。それで、全学連は自分たちで樺さんを踏んづけて、それで窒息死となったんだ」。

──まさに歴史の現場にいたんですね。
「ハガティー事件のときも、警備していたよ。アメリカ大統領アイゼンハワー訪日のために来日したハガティーは、羽田空港でデモ隊に包囲されたんだ。それで、アメリ海兵隊のヘリコプターでアメリカ大使館に脱出した」

木下さんは、郷土史をたくさん書いているが、木下さんご自身の歴史の体験がじつにおもしろそうだ。

 

ヤマギシの洗脳体験01

インドを旅すると、まったくの無所有生活をしている遊行者によく出会う。その数、何百万人もいるんじゃなかろうか。寝るのは樹の下、持ち物は衣と杖くらい。

インドではそうした遊行者は尊敬される。お金持ちはすすんで布施をする。そうした社会だから無所有生活は可能となる。ブッダもそのようにして暮らしていたのだろう。
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日本で無所有の生活は、ほとんど不可能だ。ホームレスの暮らしは辛い。

だが、原始共産社会、無所有の共同生活をしている集団がある。ヤマギシ会だ。「幸福会ヤマギシ会」という。農業・牧畜業を基盤とするユートピアをめざす。

そんなヤマギシ会を知ったのは「中外日報」に掲載された元お坊さんの体験だった。
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彼は、浄土宗の寺の家に生まれた。そのまま寺を継ぐことに躊躇があり、禅の師匠を求めてアメリカにわたった。

サンフランシスコの禅センターで指導されていた鈴木俊隆老師に指導を受けたいと思った。しかし、師はすでに亡くなっていた。そのまま、しばらくアメリカで放浪を続けた。

やがて帰国して、ヤマギシの存在を知った。
彼はヤマギシで暮らす村人と出会い、「無所有」の生き方を知った。その暮らしに出会ったとき、自分の名ばかり「出家」が恥ずかしい。そう気づいた。家がある、土地がある、車がある、家族がある。いったいこれで「出家」といえるだろうか……。

もとより祖師たちは、みんな持ち物などなかったことだろう。法然も、親鸞も、日蓮も、道元も、一遍も。なにより、ブッダがそうだった。王子としての地位も財産も、妻子も捨てて出家した。終生、無所有の生き方をした。
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ヤマギシの生活にこそ、ほんとうの出家があるんじゃないか」。
かれは寺を継ぐことをやめ、ヤマギシ会に入った。ヤマギシ会に「出家した」のだった。

いまヤマギシ会の実顕地(集団農場みたいなところ)で暮らしている
「自分の持ち物といえば、風呂敷に収まるだけのもの。そう、メガネ、歯ブラシと、下着、手ぬぐいくらいしかありません」

「なんの財産もたない生活って、清々として心配のない日々なんですよ」
そう彼は言っていた。

オウムに出家したことのある知人も、言っていた。
「オウムにいたというと、いろいろ偏見をもたれるけれど、あのなんの持ち物もない出家生活生活。──あのときほど安心して、心配のない日々はなかった」
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彼は、寺よりもヤマギシのなかに「無所有の生き方」に価値を見いだした。
その体験を聞いて、わたしもヤマギシを体験してみたいと思った。聞けば「トッコウ」と呼ばれるヤマギシの「特別講習会」があるという。だれでも参加できる。

だがこの「特講」はよくできた「洗脳」のプログラムともいう。そうだ、洗脳を体験するのも、ひとつおもしろいじゃないか。ということで、一週間の宿泊の「特講」に参加したのだった。

統一教会の「洗脳」を調べていくと、ヤマギシ会の「特講」を思い出したので、書いてみた。(つづく)

 

あかりは、きょうから不登校

あかりは、きょうから不登校
そのことは担任の先生には、すでに伝えてある。

朝、先生から電話を頂いた。
「学校がつまらない、おもしろくないというのが本人が言う理由です。

いじめでもありません。無気力でもありません。まあ、〈積極的自宅学習〉を選んだということです。

でもまあ、子どもですから、また気が変わるかもしれません。そのときには、よろしくおねがいします」

畑仕事、絵本読む、ブロックを積みながら物語を紡ぐ、ひとりで学べるようにしなくちゃ。「おとうちゃん、あそんでー」となってくるので、こちらが仕事ができなくなるなぁ。

 

彦根から、はるばる岩崎さん

「朋(とも)有(あ)り遠方より来(きた)る、亦(ま)た楽しからずや」(論語
彦根から、はるばる岩崎正春さんがきてくださった。2年ぶり。
あかりの側弯症と妻の京子の治療をしてくれた。
身体の調整法を教えていただいた。
その後、タントラの呼吸法も伝授していただいた。
沖縄の三線を弾いてカホンを叩いて、あかりと遊んでくれた。
ありがたきかな、ありがたきかな。

 

草創期の創価学会は、呪物的なものオカルト的な要素が相当にあった

草創期の創価学会日蓮正宗大石寺の外護団体)は、呪物崇拝的なもの、オカルト的な要素が相当にあった。

たとえば、「御肉牙(おにくげ)」である。

戸田城聖創価学会第二代会長)は、言っている。
日蓮正宗大石寺には、日蓮の歯がたいせつに保管されている。その歯には肉がついていて、700年経っても腐敗せず生きている。肉が盛り上がってきている。脈打っている。汗かいている。生きているのです。前代未聞の秘宝である。孫子の代まで語り草にせよ」と。

戸田城聖の話は、確信に満ちていてユーモアがあり、あたかも村祭の香具師(やし)のように客(信徒)を惹きつけた。以下、その講演を示す。
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御本山には、御肉牙という秘宝がある。これは前代未聞の秘宝です。

 身延がどんなことを言おうと、立正佼成会がホラをふこうとも、この御肉牙だけは、どこを捜そうともない。身延の連中は、どこかに御肉牙はあると言っているが、あったとしても、この本物の御肉牙は、お山だけにしかない。

 御肉牙というのは、日蓮大聖人様のお歯である。日目上人が大聖人様のおかたわらにいられると、大聖人様のお歯がグラグラしておられ、その歯をとり、それを日目上人に差し出された。日目様は、これを衣の袖で受け取りあそばされた。

そして、これには、下のところに肉がついていた。この肉がぜんぶ、広宣流布の時には、歯を包まれろだろうと予言あそばされている。年々肉が太ってふえていく。これは医学上説明のできないことだと思う。

このお肉は、しだいにふえて、歯を包んでいる。たしかに生きている。まことに不思議である。)これは世界のどこにもない不思議なものである。妙である。この実態を見たならば、広宣流布は間違いない。明らかである。広宣流布されてしまえば、消えてしまうもので、いまこそ拝む時期である。

孫子の代まで語り草に、広宣流布のしるしですから、御肉牙を拝観しなさいよ。

─昭和31年1月31日 本部幹部会 戸田城聖先生講演集(下)より─
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今度の4月20日から、お山においても、御肉牙(おにくげ)の拝観が許され、この御肉牙というものについて、これは不思議なものだ。話だけは、なんべんも聞いたかしらんが、もういっぺん言います。

日蓮大聖人様御在世の時に歯を抜いた。その抜いた歯の下のほうに肉がちょっぴりついておった。ところが、この肉が七百年のあいだに、だんだんだんだんふえて、ちょうど、まさに歯を包まんとしている。これは説明つきますか。しかも脈打っているのですよ、汗かいているのですよ、生きているのですよ。こういう不思議なものはありますか。

身延が威張ったって、仏立宗がなんと言ったって、こういうお歯は、富士大石寺以外は絶対にない。それから、仙台からも、福運あってこの御生骨を拝観する方々は、帰ったら、わが目で見てきた、その実態を、みんなに話して、わが日蓮正宗の誇りとして、語り伝えてもらいたいと思います。
─昭和31年4月1日 『戸田城聖先生 講演集 下』仙台支部旗返還
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さらにまた、オカルチックなものとして、「護秘符」がある。

池田大作が書いたとされる小説「人間革命」(第七巻)から引用する。

戸田は護秘符の由来を説き、日蓮大聖人が御母の重病の折り、最初の護秘符によって救い、すでに終えるべき寿命を四か年延ばしたことから、これが代々の猊下に相承され、日蓮正宗の秘法とされているものであることを説明した。そしてその使用法を教え、彼自らが願主となって、総本山の猊下に下附の手続きをとってあげるのだった。
「後で必ず報告をしなさい」
母親はいくたびも礼を繰り返して去っていった。
報告は数日後にきた。――指導通りに護秘符をいただいた翌朝、出血は完全に止まっていた。血の気を失っていた子供の頬には、うっすらと赤味さえさしていたというのである。
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どんな宗教にも、オカルティックなものが存在する。キリスト教など、イエスは処女から生まれた神の子であり、いちど死んだが三日後に蘇ったという宗教なのだ。
まあ、そのあたりは「不合理ゆえにわれ信ず」(キリスト教神学者テルトゥリアヌス)の世界でもある。

ともあれ、戸田城聖があってこそいまの創価学会がある。

戸田は戦中に壊滅した創価学会創価教育学会)を、戦後からたった10年余で信徒数を75万世帯にまでもっていった。国政(参議院)にも乗り出し、3名当選させている。

御肉牙の講演のあった昭和31年、創価学会は、第4回参議院議員通常選挙に6名の候補者を擁立、大阪支部長の白木義一郎ら3名が当選している。

そして、次のように述べている。
「われわれが政治に関心をもつゆえんは、三大秘法の南無妙法蓮華経広宣流布にある。すなわち、国立戒壇の建立だけが目的なのである」とも語っている。

国立戒壇に掲げるのは、「三大秘法の南無妙法蓮華経」=「戒壇の御本尊」=「板曼荼羅」である。その本尊もまた、「御肉牙(おにくげ)」のようなもので、おそらく後世の偽作であろう。このあたりはまた、物理的にも書誌学的にも、論じていきたい。

「閣議決定」を根拠になんでもできるのか。

法治国家なので、かたちとしては「法」を根拠になされていく。
では、国民の大多数が反対している安倍さんの国葬についてはどうなのか。

内閣府設置法を根拠に、国葬儀を含む国の儀式の執行は、行政権に属する。
②そのため「閣議決定」を根拠に行いうる。

以上は、8月22日、松野博一官房長官による定例会から。

参考:内閣府設置法
第四条三十三 国の儀式並びに内閣の行う儀式及び行事に関する事務に関すること(他省の所掌に属するものを除く。)
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閣議決定」を根拠になんでもできるのか。
閣議決定されれば、国民の大多数が反対しても行政は行いうるのか。たとえば、憲法違反でも可能なのか、という問題はある。

じゃあ、「閣議決定」ってなんなのだ。

①「閣議決定」は「内閣法」に基づいて行われる。

閣議(内閣の会議)では、「この内容で国会に提出する」という内閣の意思決定が行われる。これが閣議決定。全閣僚(国務大臣)が参加し、合意する。政府の統一見解ということになる。閣議決定された予算案は国会の審議にかけられ、可決されれば実行できる。

閣議決定の仕方。内閣官房副長官や法制局長官が案件を読み上げるあいだ、閣議書を順番にまわして、大臣がサインする。全員一致をもって承認される。閣議にかけられる事項は、前もって事務次官会議で承認を経ている。事務次官会議の前には、さまざまな法案や人事案件が、官僚によって検討され、調整を経ている。

憲法違反でも、可能。たとえば、集団的自衛権の行使を容認し後方支援の拡大や武器使用の拡大する「安保法案」(2014年)などは、憲法恒久平和主義及び国民主権の基本原理に違反する。しかし、閣議決定ですんなり決まってしまった。

憲法の番人と言われる「内閣法制局」も違憲立法審査権を持っている「最高裁」もなんにも言わない。

閣議決定されれば、国民の大多数が反対しても行政は行いうるとしたら、行政が何でもできる。憲法違反であっても実行できる。「中国と戦争する。核兵器を作る」と閣議決定すれば、それが可能になってしまうことだろう。

法案を提出して衆参で可決するという手続きは必要だが、いまの自公政権では通ってしまうだろう。
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大きな問題は、官僚たちがすべてを段取りしていることだが、その官僚たちは、日米合同委員会という秘密会議(月に2回)で、アメリカの言いなりになっていることだ。

すなわち、敗戦以降、GHQによる支配がずっと続いているということ。日本は植民地だということ。また、このあたりは詳しくまとめたい。

笹目仙人と出口王仁三郎

笹目仙人(笹目秀和ささめしゅうわ:1902-1997)を訪ねたことがある。笹目仙人と呼ばれていた。いまから30年前のことである。仙人は、多摩の大岳(おおたけ)というところに、道院(どういん)をもっておられた。
戦前、「大本」(おおもと)という神道新興宗教があった。経綸(国家を治めととのえる:国の建て替え)の思想をもち、それがひろく広まっていた。知識人・軍人の入信、新聞社の買収(大正日日新聞:朝日新聞と同等の発行部数)、政治団体との連携や海外展開により大きな影響力を持つようになった。
王仁三郎は大正13(1924)年2月から5カ月間にわたり、モンゴルまで布教していた。「東亜の天地を精神的に統一し、次に世界を統一する心算なり、事の成否は天の時なり、煩慮を要せず、王仁三十年の夢今や正に醒めんとす」と述べている。
王仁三郎は大草原を自ら馬で疾駆する。その最終目標は、中東のエルサレムだったという。その時にお供をしたのが仙人であり、植芝盛平合気道創始者)などであった。
しかし軍部としては、天皇絶対制のなか、俗世を超えた指導者で幅広い影響力のある大本を放置できなかった。治安維持法違反により弾圧に入る。ダイナマイトで神殿など徹底的に破壊されてしまう(1935年:昭和10年第二次大本事件)。指導者の出口王仁三郎は逮捕された。
王仁三郎は、そのことを霊感で知っていたのか、「御神体をモンゴルの崑崙山の頂上に埋めてくるように」と、大本の御神体を仙人に預けた。仙人は、それを実行した。なんと崑崙山の麓から、鶴に乗って数千メートルの山頂まで行ったという。この「鶴船」はひとつ霊的体験なのだと思うが。
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それらの仙人の体験をもとにした「神仙の寵児」(全部8巻)という本は霞が関書房が出して絶版であった。それを1991年に国書刊行会が復刻することになり、佐藤社長と割田専務が仙人を訪ねるという。「じゃあご一緒させてください」ということになった。当時の幸福の科学大川隆法のプロデュースをしていた一条真也氏も同行した。なお、「神仙の寵児」は徳間書店から一冊に縮刷されて「モンゴル神仙邂逅記」としても出されている。
道院では、「世界紅卍会」(せかいこうまんじかい)のメンバーが、香港から来ていた。「フーチ」という、神が降りてきて字を書くという儀式の最中であった。二人が棒を持ち、その真ん中に筆がついている。巫女(みこ)という字があるが、その漢字の「巫」のごとくである。神が降りてきて、その筆を通してご託宣が書かれるのであった。ま、ダウジングみたいなものといえようか。
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ちょうどその祭典に、友人の山田龍宝(やまだりゅうほう)さんと美砂さんのカップルが来ていた。ふたりとも親友で、上京の際、いつもわがやに滞在してくれた。
龍宝さんと仙人とは親しいようだった。「最近、足が痛くてなあ」と仙人がいうと、龍宝さんが「じゃあ、今晩、部屋に伺いますので治してさしあげます」。
龍宝さんは、「切診整体」が得意で、体なおしもできた。ギュー。「おお、痛いですなぁ」と仙人。「これくらい我慢しなくちゃいかんですよ」と龍宝さん。龍宝さんが、笹目師を整体している間、ぼくは枕元で、仙人からお話をお聞きしたのであった。
ちなみに、翌朝、「龍宝くんのおかげで、足が治ったようだ。ありがとう」と仙人は言っていた。
以下、笹目師の枕元で、直接、聞かせてもらったことだ。
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日本兵は、無条件降伏ということで、ソ連兵に武器を差し出した。そして、シベリヤに抑留された。極寒の下、満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられ数万人が亡くなっている(抑留された日本人は約57万5千人、死亡者は約5万8千人)。
仙人は、食べ物のない中、太陽の光(精気)を食べる、月の精気を食べる行をおこなって生き延びたという。仙人はとてもがっしりした大きな手をしていた。「この手でロシア兵を何人もぶん殴ったものだ」と笑っていた。
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いまの天皇親王浩宮)のとき、よく大岳にハイキングにこられた。浩宮が登山するときには、数日前に、警備の人達が視察に来る。それで、「ああ、浩宮が登山するな」ということが仙人には、わかっていた。
そして当日、浩宮がくるコースに待ち構えていて「殿下、お待ちしていました。どうぞこちらへ」と、自分の道院に案内してしまった。
とにかく奇想天外、波乱万丈な人生。貴重な出会いであった。
これまで、いろいろとおもしろい人に出会ってきたものだと思う。また、思い出してはまとめていく。

 

「学校はもう行かない」 あかりは、深く心を固めていた。

「学校はもう行かない」
あかりは、深く心を固めていた。

─そうか。でも、行きたくなったら行けばいいんだよ。

「ここまで頑張ったんだから、もういかなくていいでしょう。だって、学校っておもしろくないんだもの。それに、自分で毎日、べんきょうするし。九九だってもういえるし、〈くらい〉もわかったし。絵本も毎日、たくさん読んでるし。」

─そうだねえ、まあ行かなくてもいいし、行ってもいいし。どちらでもいい。行きたくたくなったら行けばいい。
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ということで、きょう学校の担任の先生に、伝えてきた。

─あかりはもう学校に行きたくないと言っていますので、9月からもう行きません。
「あらぁ、それは困ったわねえ。午前中だけでもくるとか、難しいですか。」
─ああ、たしかにそれもいいですね。週に一回とか。図書館にだけ行くとか。まあ、親としては、そもそもマスクして授業を受けさせたくないとも、思っています。
「マスクは、したくなければしなくてもいいですよ」
─あかりの気持ちを大切にと思っています。先生にご迷惑ばかりおかけしますが。
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きょうは、小学校の親たちが奉仕作業の日で、ぼくはエンジン草刈機で、草を刈ってきた。
すごいことに、9割の親たちがマスクをしてた。この暑いのに、こんな広い校庭での作業なのに、なんということだろう。

大人はマスクしたければ、すればいい。
しかし、子どもにマスクさせるのは、酸素がいかなくなるし、二酸化酸素濃度が高くなって、脳細胞の発達が阻害される。なにより不自由で不快。
そして、マスクなどしても、全く意味がない。
子どもから元気とコミュニケーション能力を奪うだけ。

共時性(シンクロニシティ)が起こることが多い

共時性シンクロニシティ:因果関係のない2つの出来事が、偶然とは思えないかたちで同時に起きること)とでもいうか。

ぼくには、それがよく起こることがある。

きょうは、この過疎の山里にある銀行の支店に行く。
現金を降ろすことになって免許証の提示を求められた。

免許証を見た女性事務員の方が、誕生日が5月23日。ぼくと一日違いだった。すると、その隣りにいた事務員の人が、ぼくと同じ5月22日というではないか。
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10年くらい前、雲を耕す会というNPO法人の総会で講演を依頼された。そのときの広報担当の方が、ぼくと生年月日が全く一緒だった。

そのまた10年くらい前、平将門の胴塚がある水海道のお寺の住職の本を作ることになって、出版社の方と訪問した。

なにげに誕生日の話をすると、その和尚が5月21日。ぼくが5月22日。なんと出版社の編集者の人が5月23日。えーー!とびっくりしたものだった。
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じつは、西洋占星術をすこし探求している。生年月日と太陽と月の支配星の関係と人の性格について、100人以上のデータをとっている。

大きくは火の星座、水の星座、風の星座、土の星座と分類されてそしてまた細かくなっていくのだが、それを眺めていると、だいたいある種のイメージがつかめてくる。

その人が生年月日が間違えていたりしても、占星術からみて、たぶん一日ちがうよ、ということもわかったりする。

バースチャートを読み込めれば、かなりみえてくるものがあると思うが、まだそこまでは学べていない。
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インドを旅したときは、南インドでジョーティッシュ(インド占星術)でみてもらったりした。とても緻密でよく当たったのには驚いた。

といっても、いろんな占星術者がいて、これまたおもしろい。
ベナレスでは、ニーラババという人が「そこの者、占星術でみてあげよう。金はいらんぞ」という。
「タダならいいか。じゃあ」とみてもらった。

あなたは、60歳でサマーディをマスターする。70歳でタントラをマスターする、などと言われたものだった。

─ああ、そうなんだ。どうもありがとう。じゃあね。
そのまま帰ろうとすると、「待て」。
「わしは金はいらない。じゃが、神がわしを通して謝礼を要求しておる。いくらかおいていけ」
─なんだそれ……。

というようなことがあった。