過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

笹目仙人と出口王仁三郎

笹目仙人(笹目秀和ささめしゅうわ:1902-1997)を訪ねたことがある。笹目仙人と呼ばれていた。いまから30年前のことである。仙人は、多摩の大岳(おおたけ)というところに、道院(どういん)をもっておられた。
戦前、「大本」(おおもと)という神道新興宗教があった。経綸(国家を治めととのえる:国の建て替え)の思想をもち、それがひろく広まっていた。知識人・軍人の入信、新聞社の買収(大正日日新聞:朝日新聞と同等の発行部数)、政治団体との連携や海外展開により大きな影響力を持つようになった。
王仁三郎は大正13(1924)年2月から5カ月間にわたり、モンゴルまで布教していた。「東亜の天地を精神的に統一し、次に世界を統一する心算なり、事の成否は天の時なり、煩慮を要せず、王仁三十年の夢今や正に醒めんとす」と述べている。
王仁三郎は大草原を自ら馬で疾駆する。その最終目標は、中東のエルサレムだったという。その時にお供をしたのが仙人であり、植芝盛平合気道創始者)などであった。
しかし軍部としては、天皇絶対制のなか、俗世を超えた指導者で幅広い影響力のある大本を放置できなかった。治安維持法違反により弾圧に入る。ダイナマイトで神殿など徹底的に破壊されてしまう(1935年:昭和10年第二次大本事件)。指導者の出口王仁三郎は逮捕された。
王仁三郎は、そのことを霊感で知っていたのか、「御神体をモンゴルの崑崙山の頂上に埋めてくるように」と、大本の御神体を仙人に預けた。仙人は、それを実行した。なんと崑崙山の麓から、鶴に乗って数千メートルの山頂まで行ったという。この「鶴船」はひとつ霊的体験なのだと思うが。
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それらの仙人の体験をもとにした「神仙の寵児」(全部8巻)という本は霞が関書房が出して絶版であった。それを1991年に国書刊行会が復刻することになり、佐藤社長と割田専務が仙人を訪ねるという。「じゃあご一緒させてください」ということになった。当時の幸福の科学大川隆法のプロデュースをしていた一条真也氏も同行した。なお、「神仙の寵児」は徳間書店から一冊に縮刷されて「モンゴル神仙邂逅記」としても出されている。
道院では、「世界紅卍会」(せかいこうまんじかい)のメンバーが、香港から来ていた。「フーチ」という、神が降りてきて字を書くという儀式の最中であった。二人が棒を持ち、その真ん中に筆がついている。巫女(みこ)という字があるが、その漢字の「巫」のごとくである。神が降りてきて、その筆を通してご託宣が書かれるのであった。ま、ダウジングみたいなものといえようか。
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ちょうどその祭典に、友人の山田龍宝(やまだりゅうほう)さんと美砂さんのカップルが来ていた。ふたりとも親友で、上京の際、いつもわがやに滞在してくれた。
龍宝さんと仙人とは親しいようだった。「最近、足が痛くてなあ」と仙人がいうと、龍宝さんが「じゃあ、今晩、部屋に伺いますので治してさしあげます」。
龍宝さんは、「切診整体」が得意で、体なおしもできた。ギュー。「おお、痛いですなぁ」と仙人。「これくらい我慢しなくちゃいかんですよ」と龍宝さん。龍宝さんが、笹目師を整体している間、ぼくは枕元で、仙人からお話をお聞きしたのであった。
ちなみに、翌朝、「龍宝くんのおかげで、足が治ったようだ。ありがとう」と仙人は言っていた。
以下、笹目師の枕元で、直接、聞かせてもらったことだ。
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日本兵は、無条件降伏ということで、ソ連兵に武器を差し出した。そして、シベリヤに抑留された。極寒の下、満足な食事や休養も与えられず、苛烈な労働を強要させられ数万人が亡くなっている(抑留された日本人は約57万5千人、死亡者は約5万8千人)。
仙人は、食べ物のない中、太陽の光(精気)を食べる、月の精気を食べる行をおこなって生き延びたという。仙人はとてもがっしりした大きな手をしていた。「この手でロシア兵を何人もぶん殴ったものだ」と笑っていた。
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いまの天皇親王浩宮)のとき、よく大岳にハイキングにこられた。浩宮が登山するときには、数日前に、警備の人達が視察に来る。それで、「ああ、浩宮が登山するな」ということが仙人には、わかっていた。
そして当日、浩宮がくるコースに待ち構えていて「殿下、お待ちしていました。どうぞこちらへ」と、自分の道院に案内してしまった。
とにかく奇想天外、波乱万丈な人生。貴重な出会いであった。
これまで、いろいろとおもしろい人に出会ってきたものだと思う。また、思い出してはまとめていく。