過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

エホヴァとの宗教談義

エホヴァの方が訪ねてくれる。いつも聖書談義。石打の刑の話、イエスを磔の刑に処したピラトの裁判の話など、多岐にわたる。

奥さんと二人でこの山里で布教に来る。奥さんのほうは、開墾の集落のおばあさんと聖書の学習会。ダンナのほうはつねうちに来て聖書談義。いつも清潔な服装で、礼儀正しい。相手の話もよく聞く。まあ、わたしの話が8割ってとこだけど。
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「こないだはイザヤ書でしたが、今日はマタイ伝とパウロの手紙を」

ということで、いかに人と人が敵対し、国と国が敵対し、飢饉になり、災害が起きるのかという言葉。しかし、イエスの言葉は不滅であると。ふむふむと読んでは語り合う。

「そういえば、こないだ日蓮さんが本仏だという方がいて、話をしましたよ」

──そういう人とは、まったく話にならないでしょう。

「はい」

──おもしろいことに、宗教は近いほどに争うよね。国もそうだけど。まず、カトリックプロテスタントの殺し合いは長く続いた。プロテスタント同士、教義が近いものほど争う。

たとえば、日本の最大宗教団体である創価学会は、草創の頃は、邪宗教として日蓮宗を攻撃していた。その次に、新興宗教立正佼成会。おなじ日蓮正宗内の妙信講(顕正会)。そしていまは、最大の仏敵は日蓮正宗になっている。

そして創価学会は、反逆者に対しては特に厳しい。聖教新聞の一面に「反逆の輩は、野垂れ死にするまで追い込め」という大作さんのメッセージが書かれてあった。まあ、やがて創価学会の分派ができて、熾烈な闘いになるかもしれない。

これ、人間の心の法則だからね。親しいものほど、違いをあらわにして争い出す。エゴが噴出するんですね。特に、宗教はそれが強くなる。そして、国同士もそうだと思う。
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「ううむ。かなしいことですね。わたしもクリスチャンの家、牧師の家を訪ねたら追い返されました。暖かく話を聞いてくれるのは、池谷さんぐらいかも」

──ぼくは宗教の探求が最大の楽しみですからね。こうして聖書を学べるのはありがたいことと思います。

それにしてもいまの時代、各家を訪ねて布教しているのは、エホヴァくらいでしょう。顕正会は駅前で「日蓮聖人を信じなければ国が滅ぶ」というような新聞を配るだけ。創価学会は、「友好活動」として近隣と親しくして、それは選挙の時に公明党に入れてもらうためで、布教はしていない。その力もなくなってきた。
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「そうですね。創価学会の人は折伏をしなくなりましたね」

──他人の家に行って宗教の勧誘をするには、自分の言葉で語れる力が必要ですね。あるいは、『法華経』であれ日蓮の遺文であれ、きちんと読んでいなければならない。布教する時、そこが問われる。もちろん人間性も。

日蓮のどこが正しいの?と訊かれたら、根拠を示さなくちゃいけない。『法華経』ってどこがどう正しいの?と訊かれたら、それを示さなくちゃいけない。
いろいろと根拠を問い続けていくと、ついには「正しいから正しいんだ!」と怒りだしてしまう。

まあ他流試合すると、自分の実力が顕わになる。それで鍛えられ続けてきたのが、キリスト教であったわけですね。ぼくは、西洋文明の基礎はキリスト教であり聖書だと思うので、聖書は必ず読みます。そこにも歴史の厚み、イエスの説得力のある言葉が響きます。

‥‥と話していると、彼のケータイがポーンと鳴って、奥さんから「いま学習会が終わりました。」ということで、帰っていった。