シリーズで書いているが、思い出すこともあり、たびたび補足していく。
創価学会が盛り上がりを見せたのは、「正本堂」という巨大な礼拝施設の建立時代であろう。
当時、350億円以上(当時の金額:2025年の貨幣価値で約1500~2000億円に相当宗教団体の単一プロジェクトとしては異例)の寄付が集まった。
そして1972年(昭和47年)に落慶法要が行われた。
しかし、1970年代、意のままに日蓮正宗を支配できると思った創価学会は、日蓮正宗との対立をよび、1991年、日蓮正宗から破門される。
日蓮正宗は、正本堂を「国立戒壇」として扱った創価学会の教義を「異端」とみなし、1998年に解体を決定。解体理由は「教義の浄化」と「大石寺の伝統回復」(日蓮正宗公式声明、1998年)
「正本堂」が礼拝施設として使われたのは、わずか26年(1972年~1998年)であった。正本堂が「広宣流布の象徴」として学会員の礼拝施設として最も活発に使われたのは、1972年から1980年代初頭(創価学会と日蓮正宗の対立が顕在化する前)までとすると約10~15年程度であったか。
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この創価学会が熱気を帯びていた時代、創価学会と公明党は一体であり、創価学会の政治部門が実質的に公明党であった。
公明党の設立目的は、日蓮の遺命とされる「国立戒壇の建立」にあった。いわば、創価学会を国教とすることで国が繁栄するという思想が背景にあったのだろう。その象徴として、以下の発言がある。
「我々が政治に関わるのは、広宣流布を実現するためであり、三秘法(題目・本尊・戒壇)のうち、戒壇の建立が目的である。つまり、我々が政治に入る唯一の目的は、国立戒壇の建立である。」(戸田城聖著『王仏冥合論』、聖教新聞社、1956年)
公明党の設立は、前身である「公明政治連盟」の結成(1961年)と、正式な政党としての「公明党」の結党(1964年)の二段階に分けられる。
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私が創価学会の座談会に参加していたのは、17歳の頃、1970年であった。
印象的だったのは、東京から来た幹部の話だ。
不幸の根本原因は、先祖から受け継いだ数多くの因縁にある。その因縁は医学ではどうにもならない。信心によってその因縁を断ち切ることができる。そして、「折伏」(創価学会の会員を増やす布教活動)によって、悪因縁を一つずつ断ち切れる。
選挙では、一票を得る功徳は、普段の折伏による功徳と同等である。だから、折伏のつもりで選挙の票を集めてほしい。
このような話を直接聞いたことがあった。
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やがて創価学会は、1969年の言論出版妨害事件を起こし、国会で問題となり、池田大作氏の証人喚問が議論される事態となった。
これを契機に、1970年に創価学会は公明党との分離、すなわち政教分離を表明した。また、池田氏は国立戒壇の建立を公明党の任務としないと明言した。
しかし、現在も創価学会と公明党は密接な関係にあり、選挙では学会員が自発的に票集めに奔走する。この山里では、投票所に行けない人のために車で送迎する活動も行われている。
かつてのような熱気や勢いは高齢化により衰えたものの、国政選挙では500万票、多い時には800万票もの力を発揮している。
国立戒壇の建立という宗教的目的のために政治組織を設立するという発想は、現代の政教分離原則から見ると特異である。「折伏のつもりで選挙の票を集めてほしい」という幹部の発言は、宗教活動と政治活動が不可分であったことを如実に示している。
言論出版妨害事件を契機に、表向きは政教分離を表明せざるを得なかったが、実際には現在も密接な関係が続いているのが実情である。