過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

本日も「ZOOM楽座」。21時から。「異安心を恐れず語る念仏」

日も「ZOOM楽座」開催。21時から。テーマは「異安心を恐れず語る念仏」というところ。以下、すこし、池谷なりに書いてみた。
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比叡山には、「四種三昧」(ししゅざんまい)天台の行法があって、そのなかに常行三昧という行法がある。阿弥陀仏を観相するという行法です。仏のイメージがリアルにあらわれるまで瞑想していく。なかなかたいへんな行法で、一般庶民は、とてもそんなことはできない。
すくわれるべきは庶民である。出家修行者だけではなくて、一般庶民ができる行法こそが必要だ。そこで、法然は「観経疏」という注釈書をヒントに、称名念仏をはじめた。それは全国的にひろがっていった。
観相念仏ではない。「ひたすら念仏を称える」。いわばだれでもできる。男でも女でも、金持ちでも貧乏人でも、仕事はなんでも。寝たきりでも。幼児でも。ただ、称えればいい。それで救われるということだ。
いわば、マントラ瞑想ということもできる。このあたりは、南無阿弥陀仏でも南無妙法蓮華経でもオーム・ナマ・シヴァーヤでも、大差はないとぼくは感じているが。
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しかし、そうはいっても、なかには称えられない人もいる。また、そもそも信じられない人もいる。
そうした人に救いはないのか、信じられなければ救いはないのか。そこが親鸞のテーマと思っている。
で、親鸞の教えは、ざっくりいえば、「すべての人はもう救われているのだ。どんな人でも、たといどんな悪業を積んだ人でも、救われている」。そういうものすごい教えと思う。ちょっと、キリスト教パウロの教えに似ていなくもない。
じゃあ、なんにもしなくても救われるなら、なんにもしなくていいのか。もそも、その救いとは何なのか。
それは、現世で可能なのか。あるいは、来世で可能なのか。そのあたりがテーマになると思う。
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難しいところで言うと、歎異抄の冒頭の言葉。
「弥陀の誓願不思議にたすけられまいらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏もうさんとおもいたつこころのおこるとき、すなわち摂取不捨の利益にあずけしめたまうなり」。
念仏を称えようと思い立つこころが起きたその瞬間、救われているという。
じゃあ、「思い立つこころが起きたその瞬間」ってなんなのだ。どうしたらそれが可能のか。
そんなことを、いきなり論じていくように思います。
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ちょっと難しいかなあと思いつつ。あまり雑談的にならず、踏み込んでいければと思っている。
とくに、あびさんは、臨死体験(心肺停止13分間)があり、ある意味では、限りない広がりの世界=いわば、阿弥陀(かぎりないいのちとひかり)の世界を垣間見てきたんじゃないかと思う。
きょうは、いつものように「魂の螺旋ダンス」の著者のあびさん。ゲストには、京都で坊主バーを経営し、真宗の僧侶でありプログラマー、さらにはニューエイジ思想や心理学を探求している羽田高秀さん。あび─羽田─池谷の三者の話を軸に展開していくことになると思う。
大脳生理学、脳の働き、脳の可塑性のあたりも含めて論じていければ面白いと思う。一方的な講座ではなくて、参加者との対話型になる(それでないとおもしろくないので)。ということで、いつものようにどういう方向になるのかは、あらかじめわからないところだけれど。
 

 

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