過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

宮本常一 母の思い出

尊敬する方に、宮本常一(みやもとつねいち)がいる。

日本各地を旅して、聞き語りで生き生きとした人々の暮らしを伝えた。民具、離島、村、農業技術、漁業、林業口承文芸、文化論など多彩なフィールドがある。「人間は伝承の森である」と常一はいう。

文章が読みやすい。わかりやすい。観念ではない、まさに呼吸している暮らしが伝わる。この「母の思い出」など、なんとも美しい。
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母の思い出

家がまずしくて、母は朝早くから夜暗くなるまで働かねばならなかった。何歳のときであったか、誰の背に負われていたのか、それはわからないが、母が恋しくて泣きにないて、見あげた空の松の上に月が光っていたのが、私が物心ついての最初の記憶であった。

いそがしくしてはいたが、母は私を可愛がって下さった。だから母について田や畑へいくのが好きであった。

薪をとるため奥山へゆくときなど、母はよく唱歌をうたってくれた。母は小学校へゆかなかった。小学校へゆく年の頃は子守奉公にいっていた。子供の守りをしながら教室のガラス戸越しに字をおぼえ唱歌をおぼえたのであった。

母に教えてもらった唱歌のうちのいくつかは、いまもおぼえている。その歌をうたうと、キラキラとまばゆいばかりに日の照る山道をのぼっていった日のことが絵のように思い出されてくる。母とあるく道はすべて美しかった。

あるとき母といっしょに山畑の茶を摘みにゆく途中、夕立にあった。大きな木が近くにいくらもあったが、大きい木には雷がよくおちるので、母は木の立っていない坂道の中ほどに、背負っていた大きな案籠を横にしておき、上へ一メートル四方ほどの筵をかけ、その籠の中へはいって雨をさけた。

足を折りまげて二人はいったが、母の足首は籠の外に出ていた。私は母に抱かれてジッとしていた。雨が真上のあたりで鳴っていた。しばらくすると雨は小降りになり、やがて西の空がはれてきた。

籠の中から出てみると、あたりは生きかえったように青々とした色が冴えていた。母は私を見て「おそろしかったの」といった。そのときの母をほんとに美しいと思った。

二人はそれから桑畑へいった。桑の葉がぬれているので摘むことができない。そこで枝をゆさぶって露をおとさねばならなかった。親子は桑畑の中を桑の露をおとしてあるいた。

すると夕立にぬれるよりもひどくぬれたが、頭の上に青い空があるとたいして気にならなかった。露をはらってしばらく休んでいると桑の葉はかわいてきたので、母は桑を摘みはじめた。夕立をさけるためにかなりの時間がすぎている。家には腹のすいた蚕が待っているはずである。

母は一心に桑の葉をとっていたが、やがて思い出したように唱歌をうたいはじめた。私も母の手伝いをした。それがどれほどのたしになったであろうか。夕方までには大きな籠が桑でいっぱいになった。

母はその桑籠を背負った。荷が重いから帰りは歌をうたわなかった。私は後からいっしょうけんめいについてゆく。休み場のあるところで休んではゆく。私も早く大きくなって母を助けたいと思った。

不平も愚痴もほとんどいわぬ人であった。そして冬になると毎日のように機を織り、それで着物をぬうて着せて下さった。家の中から機を織るオサの音がきこえると、私は安心して外で仲間たちと遊んだ。(一九六二年五十五歳)
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宮本常一伝書鳩のように」(平凡社)より:文章は、池谷が適当に改行しいる。

宮本常一は、生涯で四千日を旅に暮らしたという。距離にして十六万キロ(地球四周分)、三千を超える村を訪ね歩いた。行く先々の民家に宿を借りた。泊まった民家は千軒を越えるという。この浜松の山里にも訪ねてきている。