過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

おとうちゃんは、朝から夜までずっとパソコンやってるでしょう。それよくないよ。

あかり(7つ)は「はたらく細胞」というアニメが好きでよくみている。(清水茜の漫画。『月刊少年シリウス』で連載された。累計部数は930万部を突破)
その影響で、血管がどうの腎臓がどうのという話をするようになった。

「アルコールって、分解されるんだよね?」

──そうだよ。体内でアセトアルデヒドに分解される。

「アセトなんとかがでるとどうなるの?」

──酢酸に分解される。 酢酸は全身に送られ、筋肉や脂肪組織で二酸化炭素と水に分解され、吐く息やおしっこ尿となって出ていくんだ。

でもね。たくさんアルコール飲むと、顔が赤くなる。だるくなる。からだのバランスが悪くなってフラフラする。あたまがぼーっとしてくる。ちゃんとしゃべれなくなる。いつも慢性的に飲んでると、やがて肝臓が疲れて悪くなる。死んじゃった人も、友だちで何人もいるよ。
 ▽
「そうなんだ、こわいね。それと、カフェインも、からだによくないんでしょう?」

──うん、父ちゃんが毎日のんでいるコーヒーに、カフェインがあるんだよ。茶にもあるんだ。おいしくて目覚めてスッキリして気持ちがいい。でも、とりすぎらよくない。適度ならいいんだ。

「そうか」

──それと、依存症といってね、中毒になりやすい。それを飲まないとイライラしたりする。それがよくないんだ。タバコは、ニコチンという成分が依存症にさせるんだ。

「とりすぎたらだめなんだね」
 ▽
──うん。なにごともね。テレビだって中毒になるよ。

「へぇ、どんなふうになるの?」

──いつも毎日、テレビつけっぱなしの人がいるでしょう。朝起きたらテレビつけてる。食事中もつけてる。出かけて家に帰ったらすぐにつける。お客さんが来てもつけてる。夜、寝るまでつけっぱなし。それって、中毒だよ。

「そうすると、どうなるの?」

──いつもテレビばかり見ていると、自分で考えなくなる。自分の意見をもつことができなくなる。感性っていうんだけど、感じる力が弱くなる。ぼーっとしてくる。
なにごとも、受け身になる。バカになりやすいっていうかな。

「それはどうして?」

──テレビって光と音とか、次々とにすごいでしょう。やすみなし。そればかりみていると、刺激が強すぎて、こまやかなことに鈍感になるんだ。だから、あんまり見ないほうがいい。本を読んだほうがいい。
 ▽
「おとうちゃんは、朝から夜までずっとパソコンやってるでしょう。それよくないよ。」

──うん、そうだね。でもね、これはおとうちゃんの仕事だからね。パソコン使って仕事しているんだよ。

「でもさあ、絵を描くとかさあ。からだ動かすとかね。そういうのがいいいよ。」

──うん、たしかに。それがいいなあ。歌ったり、描いたり、なにかものをつくったり、料理したり。ほんとうは、そういうのをしたいよ。

「あかりちゃんは、パソコンの仕事はしないんだ。おもちゃつくったり、絵をかいたりして暮らすんだ。」

──うん、それがいいね。きっとそうなるよ。なにかをいつも創造して、自分も楽しいし、みんなも喜んでくれる。それで暮らしていける。そういう人生になると思うよ。

 

アオバトが激突死

アオバトが激突死。
こんなきれいな鳩を見たのは初めてだ。
カッコウかなあと思ったが、調べたらアオバトだった。

全長三十センチくらい。美しいオリーブ色。頭から胸にかけて黄色、翼の一部がブドウ色、腹部は白い。

トンビなどに襲われて必死で逃げて窓に激突したようだ。
妻が言うには、突然、ドーンと音がして壁が振動するほどだったようだ。

 

明日、午後にひとりで学校に出かけてテストを受ける気になった

──明日、学校でテストがあるんだってさ。
みんなと一緒に受けてもいいし、ひとりだけで受けてもいいし。
受けなくてもいい。あかりは、いくかい?

「テストかあ……。う〜ん、どうしようかなあ」

──自分できめればいいよ。

「おとうちゃん、テストって好きだった?」

──おとうちゃんは、好きだったよ。

「どうして?」

──だって、自分の力試しになるでしょう。
どこができて、どこができなかったかがわかる。
できなかったところは、あとで自分で勉強していけば、もっとわかるようになる。わかるようになると、おもしろくなる。

「そうかぁ」

──だから、自分の力試しと思ったらいい。人と比べて、できたとかできないじゃなくて、あくまで自分の力試し。

「うん。力試しならいいね。じゃあ、行く。」

──きっと、おもしろいと思うよ。

「マスクは必要かなあ」

──マスクなんてつけなくってもいいよ。教室で一人だから、3密回避だしね。


というわけで、あかりは、明日、午後にひとりで学校に出かけてテストを受ける気になった。とくに、そういうふうに誘導したわけじゃないんだけど。

 

この山里で互いにサポートし合える関係性作り。これが、大きなテーマ

「尾上さんの素敵な庭で、梅の木の剪定をする。そこに、子どもたちがたくさんきて遊ぶ。あかりちゃんも連れて行ってあげましょうか」
西田さんからの電話。ありがたい、あかりを連れて行ってもらった。

昼、おむすびをもっていくとなつかしい友人たちも、たくさんいた。
帰りも西田さんが、あかりをおくってきてくれた。4つの息子がここで遊びたいというのであかりと遊んで、みんなで夕食。
 ▽
夕方Kさんから「明後日、本人も妻も動けないので、息子を幼稚園に行ってもらえませんか。それから11時から14時まで預かってほしいんですけど」と電話。こまったときにはおたがいさま。サポートしましょう。
こうして、家族同士の付き合いができると、お互いにサポートし合える関係がもてる。山里暮らしも随分とラクになる。

 ▽
そもそも移住者は、血縁関係が根強い地域に単身でパラシュートで降下するみたいんものだ。血縁・地縁ゼロからのスタート。じじばば、親戚はいない。ずっとよそ者だ

しかもだ。過疎地なので、保育所はない。学童保育も週に3日しかやっていない。保育ママ制度も使いにくい。子育てネットワークが劣弱。こうなると、どうしてもお母さんに負担がかかる。イライラする、夫婦仲も険悪になる。子どもも明るさは失われる。これ、田舎暮らしの大きな課題だ。
 ▽
ということで、この山里で互いにサポートし合える関係性作り。これが、大きなテーマになる。それはそままま山里の魅力発信、交流人口の増大、定住促進に繋がる道でもあるんだけど。
まあ今年は、この施設を活用してその道作りをやっていこうとしている。そのためにはやはり資金がいるので、年が明けて、次々と助成金の申請書を書いている。きょうは2本提出、月末にはあと3本。

もう、あっちこっちでコロナ感染者。

もう、あっちこっちでコロナ感染者。
ひとり暮らし80歳のMさんから電話。「検査キットがほしい。親しい人がコロナにかかった。わたしは濃厚接触者になったので、検査キットがほしい。池谷さんのとこならきっとあるかと思って」。
「うん、たしか、施設のがあるからあげますよ」。
 ▽
イベルメクチンもあるけれど、その年代の方は、テレビからだけの情報なので、説明しても伝わらない。また、確実に効くともいえないので、検査キットだけ差し上げた。10人分。
その他、一緒に食事をした人が数名いて、その人たちにも検査キットを配ると言っていた。みなさん80代。
 ▽
「でも、PCR検査は、アボカドでも陽性となるらしいから、きっと陽性になるよ」と言っておいた。
そうしたら、しばらくして「陽性だった」と報告あり。

友人のNさんも、コロナにかかって数日、ダウンしていた。
しかし、もう治ったが、自粛期間。旦那も有給。
 
ま、ともあれいまのコロナはかなり弱毒化していると思われる。
ただ、ワクチン打ったので、重症化を免れたと思っている人がほとんど。

いやほんとは、ワクチン打つほどに、免疫力が落ちて感染しやすくなるとはいいづらい。
 ▽
さら、いろいろ新株が出てくる。アメリカで大流行、新たなコロナ派生型「XBB.1.5」型。
オミクロン変異株から新たに派生。BA.5二価ワクチンは、有害事象がきつい上に、BA.5に対してそれほど有効性高くない。またイタチごっこ

さらには、中国で大感染爆発。累計の感染者数2,000万人超。各地火葬場はパンク状態という。そして、旧正月でー大移動が始まる。日本にもたくさんやってくるぞ。
しかし、ほんとうにそんなに感染しているのかなあ。マスコミは信用ならぬ。

ワクチンによってできた免疫をすり抜けて新型、またすり抜けて新型。それに対応したワクチン。また、すり抜けて新型。そうこうしているうちに、人間の免疫力が落ちていく。さらには、いつもマスク。自分の二酸化炭素を吸っているので、自然免疫力は下がるばかり。
 ▽
あの何年続くかこのコロナ。
とにかくも、サバイバルがテーマになってきた。国防がどうたらミサイルがどうたらという世界じゃないぞ。

確実に訪れる食糧危機、エネルギー危機、物価高騰、経済の大停滞。
やがて、台湾と中国で局地戦が起こされ、集団的自衛権と安保条約で、自衛隊も駆り出されね。中国から日本は攻撃され。ミサイルが降ってくるかも。
 ▽
なんとか生き抜いて、この世がどうなっていのか、人間がどのように振る舞うのか、しかと見届けていくってことがテーマになるかも。どうせ、死んでしまえばそれはそれで、現世の縁はおしまい。次の生があればまた次のテーマで生きていくわけだ。死後の冥界があったとて、どうなるものでもなし。

「いやだった、いやだった!」というおとうちゃん作曲と音頭を二人で歌って踊りまくった。

2時くらいに起きて仕事するつもりが、隣で寝ていたあかりが、それを察知してして、ぐわし!っとつかんで離してくれない。からだを巻きつかれてロックされた。仕方なく明け方まで布団から出られなかった。
 ▽
七時になってやっと、あかりを抱き上げて薪トーブの傍に連れて行って火をつけた。
「これかならあったかいやろう」「うん」
 ▽
それから景気づけだ。
「いやだった、いやだった!」というおとうちゃん作曲と音頭を二人で歌って踊りまくった。

「えーじゃないか、えーじゃないか、えーじゃないか」の音頭も踊ったわ。

あかりが「こまったわ、こまったわも作って」というので即興で作曲して踊って盛り上がった。
 ▽
声を出して歌いまくって踊りまくって生きていく。そうしてやがて、いつか死んでいくってことだ。
一遍の「踊り念仏」みたないなもので。

こうして一日が始まる。

なんだっていい。しかし鎌倉時代の祖師たちにひかれる

鎌倉時代の祖師のことを探求するのが大好きである。日課である。
とりわけ親鸞道元日蓮

哲学的、実存的な深みで、道元親鸞に惹かれる。
教義・法門の構築、その実践的な生き方として日蓮に惹かれる。

ただ、日蓮には、親鸞道元のような哲学的、実存的な深みは感じられない。

皮相的にいうと、形式論理で押していくところが強い。ただ、弟子や檀越に対しての心のこもった消息文にはすばらしい輝きがある。たいへんな名文であり、なにより文に勢いがある。
 ▽
さて、日蓮その人の思想を研究していこうとするとき、大きくはだかるのは、その遺文に「真筆」「真偽未決」「偽書」が混在していることだ。

「これは重要法門だ、真髄だ。すばらしい名文だ」というのが、じつは偽書なんてこともある。そして、偽書に名文が多い。あるいは、時代写本しかなくて後世に手を加えられていたりする。
▽ 
これらは、親鸞道元に見られないことである。多少の真偽未決があっても、大して問題視されない。

ところが、日蓮においては、重要法門において、偽書が多いので、遺文の真偽論争が延々と続けられるわけだ。

はたして、日蓮自身の書いたものなのか。日蓮からの口伝と言っているが、はたしてほんとうにそうか。口伝を受けた弟子の体裁で後世に作られた偽書もある。そして、かなり多い。
 ▽
そんなことで、日蓮を学ぼうとすると、書誌学的、歴史考証的な世界に踏み込んでいく。これはこれでおもしろいのだが、人生、生活、暮らしの役に立つかというと、そこは関係ない。

日蓮という人に仮託して書かれたものであれば、偽書でも真偽未決でもなんでもいい、生活に響いてくる、生き方の支えになる、心情を打つものであれば、それでいいじゃないかという読み方もある。いちおう、まあぼくはそういう立場で読んでいる。

というのは、日蓮が心中の師匠としていた最澄にも偽書が多い。日蓮が影響を受けた比叡山の本覚思想(円珍、円仁、源信)にも偽書が多い。
 ▽
で、そもそもいちばんの根本としていた「法華経」そのものが、釈迦滅後、数百年後に成立したもので、いわば偽書だ。ひとつつくられては、また後世が継ぎ足して、手直ししたパッチワークなのだ。

そうしてさらに、大乗仏教そのものが、偽書だ。釈迦に仮託して創作されだ文学運動のようなものだ。

すごいのは密教だ。なにしろ経典に釈迦が出てこない。説法するのは、大日如来、あるいは毘盧遮那仏、そしてその威神力を受けた菩薩が説法する。
 ▽
じゃあ、初期仏教こそ釈迦の真説なのか。というと、これも難しい。

いちおう、仏典の最古層の「ダンマパダ」「スッタ・ニパータ」あたりは、釈迦の真説に近いと捉えられている。

しかしそうはいっても、釈迦滅後に口伝でつたわっていき、文字として経典が成立したのはおそらく滅後百年くらいである。まあ、このあたり、キリスト教の成立も似たようなところがある。

宗教というものになると、どうしても開祖、教祖、神の言葉みたいなものを「権威」にしていく。頼りにしていく。

すると、ある教団が分派して、「自分たちこそが正しい」といいたいとき、偽書をつくるわけだ。「これこそが、真説だ。どうだ」というために。そのあたりの教団史、人間のありようというのも興味深い。
 ▽
まあ、そんなわけで、えんえんと原点をさぐっていくと、歴史考証学になる。
ぼくは仏教研究家ではなくて、暮らしのためにいそがしい。時間がない。

たいせつなのは、いまここに生きるということで、自分の感性で捉え、身体で掴んだものを味わい深めていこうとしている。だから、なんだっていい。しかし鎌倉時代の祖師たちにひかれる。

 

玄関スペースが、すっかり団欒の場になった

寒い。暖房すると、ガスと電気代もったいない。しかし寒い。増築してそこに薪ストーブを設置する予定が2月末になる。で、暫定的に玄関に薪ストーブを設置した、これが一ヶ月前。

温かいと気持も緩む。
玄関スペース(といっても、10畳くらいある)が、すっかり団欒の場になった。
ここで、調理をする。食事をする。ごろごろする。昼寝する。お客さんが来たら応接間となる。あかりが本を読む、絵を描く。そのうちパソコン持参で仕事場だ。
大活躍の薪ストーブだが、薪の消費がものすごい。広葉樹のストックがないので、製材所や工務店森林組合から杉や檜の端材をもらってくる。それが、瞬く間に消費されてしまう。
 ▽
いつも3時過ぎに起きることになった。まず、湯たんぽを温める。コーヒーを淹れる。野菜を刻んで煮る。便利なのがダッチオーブン。鉄がいいのだがサビが出るのでステンレス製にした。
これでほとんど煮炊きをする。昆布出汁に、根菜類をいれたスープが美味しい。ご飯も焚く。すこしお焦げができるくらいがちょうど美味しい。

 

おとうちゃんは、3歩あるいたら忘れてしまうんだよ

「おとうちゃん、これはなあに?」
──うん、それはね。

と言おうとしたらケータイが鳴る。電話でいろいろやりとりして、そのままパソコンに向かう。
「おとうちゃん、さっき話しかけた続きってなあに?」

──うん?なにか話たっけ?。

もう、そのこと自体を忘れてしまった。
「おとうちゃん、ほら、言いかけて電話に出て、それっきりじゃない」

──ああ、そうだった。言いかけてたよね。もう忘れちゃった。おとうちゃんは、3歩あるいたら忘れてしまうんだよ。

「そうなんだ。でも、3歩あるくことは、忘れないんだね」

──うん。そりゃそうだ。まあ、あかりがそうやって、言葉を切り替えしてくることをFacebookに書いておくよ。
「イイネつくかも」

──まあ、ネタとしては、たいしたことないので。もひとつ、ひねりがほしいところだけど。メモとして残しておくよ」

 

「じゃあ、こういうのはどう?」と、教科書の「おむすびころりんすっとんとん」をギターの伴奏で弾き語り

やっぱり読書がだいいち。あかりは、読書好きにさせたい。いま7つ。もう学校にいかなくなって、半年。
教科書はよんでいるけど、「あんまりおもしろくない」という。「まあ、そりゃそうだ」。
 ▽
「じゃあ、こういうのはどう?」と、教科書の「おむすびころりんすっとんとん」という文章をギターの伴奏で弾き語りしてあげた。つぎは白秋の「あめんぼあかいなあいうえお」。七五調は、歌いやすい。子供の頃は五感のリズムが大切と思う。
 ▽ 
ぼくは趣味で近松曽根崎心中の「道行き」のところを、毎日、ギターの伴奏で歌ってる。お初と徳兵衛ふたりが心中を決心して、曽根崎の森に向けて死出の旅にいく道行きのところだ。

「七ツの時が六ツ鳴りて、殘る一ツが今生の、鐘の響きの聞納め。此世の名殘夜も名殘、死に行く身を譬ふれば、仇しが原の道の霜、一足づつに消て行く、夢の夢こそ哀れなれ。あれ數ふれば曉の、七ツの時が六ツ鳴りて、殘る一ツが今生の、鐘の響きの聞き納め、寂滅爲樂と響くなり。鐘ばかりかは草も木も、空も名殘と瞰上れば、雲心なき水の面、北斗は冴て影映る、星の妹脊の天の川、梅田の橋を鵲の橋と契りて何時までも、我とそなたは夫婦星、必ず添ふと縋り寄り、二人が中に降る涙、河の水嵩も増るべし。」ベベン。
 ▽ 
それと、親鸞の「教行信証」にある「正信偈」を独自のメロディーで歌う。あと、「大無量寿経」の偈。これもいい。

そして、インドのお経の「ハヌマンチャリサ」。あかりは、それをいつも聞いているので、「ハヌマンチャリサ」の前半はソラで言えるようになってきた。

事業に挑戦すると、スキルとネットワークが広がるのはおもしろいよ

すごい早起きだよ。1時半だ。
いつも3時頃に起きると、隣に寝ているあかり(7つ)に、ぐわし!とつかまれて、「起きないで。寂しいから、このままいて」とロックされる。が、今夜はつかまらずに起きられた。
 ▽
まずは寒いので薪ストーブに火をつけた。
5,000円のホンマのブリキのストーブに、2,000円の耐熱ガラスをつけて中の炎が見えるようにした。炎が見られるのは、なんとも幸せ。部屋全体が温まる。なんとありがたいことか。

薪が針葉樹の杉や檜なので消費が早い。次々と足しても、あっというまに、杉の束が燃えていく。

やはり冬の前に大量の広葉樹を集めておかないといけない。まあ、しかし、こうして薪があるだけでもありがたい。河原で流木を拾ってきてもいいし。伐採して放置してある森はもあちこちにある。
 ▽
いま集中しているのが各種助成金浜松市中山間地まちづくり助成金は、20ページも書いたよ。ベネッセも同様。昨日、提出した。

「青少年の自己探求支援基金」なんてのもある。「自分を知る」ことを重視している教育事業に対して助成を行う。小学生から大学生までの生徒、学生を主な対象とした日本についての「学び」の機会を提供する教育事業。「学び」には、自ら「読み、考え、傾聴する」を含み、学ぶ分野は歴史、思想、哲学、芸術、文学、社会科学、科学など幅広く捉え」とある。

ううむ、こちらにも応募してみようか。

その他「こどもみらい基金」だの「キャリアサービス 働く力応援基金」だの、検索していけばたくさんある。冠婚葬祭互助会の助成金もいま書いた。アーツカウンシルしずおか、はこれからだ。
 ▽
ただし、こういう助成金は、前提としてNPO法人のような非営利の法人であること。毎年の決算内容を広報していること。過去の実績があること。そして、なにより自分も含めてスタッフの給与は一切でないこと。いろいろ制限はある。

「おもしろそうだから、やってみよう」というノリでいいと思う。もしも採択されればそこから進めばいいし。流れに乗ればそのまま進んでいく。ダメならそれはそれで縁が切れる。そんなこんなで、この10年間、50事業はやってきたんだ。

なにごともそうだけど、事業に挑戦すると、スキルとネットワークが広がるのはおもしろいよ。そして、やってみないとわからないものだ。やってだめなら、それはそれでおしまい。そして、次がまたやってくる。

「自分にはそういう発想は、まったくなかった」ということに気がつく。

7年前にわたしが始めた田んぼや炭焼き窯の手伝いによく来てくれた。彼はそのとき、40代全半。

サラリーマン的な生き方をしていたが、私の暮らしを見て「ああ、こんなに自由に生きられる世界があるんだ。こういう暮らしぶりを目指そう」と思ったらしい。これでも人の生き方に役に立っていたんだなあ。
 ▽
彼は、投資物件として、まちなかに数百万円の土地を購入した。貸して収益をあげようということだった。「ジモティ」というサイトがあって、情報発信には費用はかからない。反応を見るためにそこに情報発信した。

「借りたい」という会社がすぐに現れた。古紙ステーションだった。それで、月極契約。3年半もすれば投下資本は回収できる見込みだという。あとは、不労所得がつづく。それはすごい。
 ▽
資金に余裕のないなかで、数百万円の投資は、きわめてリスクがあったろう。しかし、成功した。これで次々と投資物件を買っては貸していきたいという。そのようにして、なかには10も20も土地や建物を買っては貸して利益を上げている人もいるのだという。

そうなったら、もう人生は、勝ち組だなあ。

ううむ。なるほど。世の中は資本を物件とかなにかに投資して、そこから回収していくという世界があるんだ。わかっている人には当たり前なんだけれど、「自分にはそういう発想は、まったくなかった」ということに気がつく。
 ▽
なにしろ、サラリーマンを12年以上やっていたし、父親は教師で公務員だった。自分で投資してビジネスするという発想がそもそもなかったのだ。せいぜい株式投資くらい。

そもそも「働く」というのは、会社員になること。そこでまじめにやっていれば、出世していく。できれば、大きい会社がいい。一流の会社がいい。そのためには、いい学校に入れば有利。そして、好きなことをしたら食っていけない。なんとか我慢して、努力して辛抱して勤めあげるのだ。そんな価値観であった。

日本の偏差値教育そのものが、そういうありようだったと思う。 まあいわば、「ホームレス」か「奴隷」のどちらかとしたら、「奴隷」の道を選ぶ。まじめで、聞き分けのいい奴隷の。
 ▽
それが、勤めだすと会社は面白くない。嫌な上司もいる。仕事もうまくいかない。 そんなとき、ある事業にスカウトされて会社をやめてしまった。で、そこもまたやめて、いつの間にかフリーランスになった。

望んだわけじゃなくて、あれれいつの間にか、だ。 そもそもフリーランスで暮らしていけるなんて思ってなかった。とくにワザもあるわけじゃない。自分の土俵も人脈もない。

しかし、悪戦苦闘しながら、「ああ、会社以外にも生きていく道があったんだ」と歩んでみて気がついた。ド素人で始めたライターと編集の世界であった。 そんなんで食っていけるのかなあ。とても不安定だ。でも、会社員よりもこちらのほうが自分には向いている。

好きなことを仕事にしたら、それ自体が楽しいから努力はいらない。自分は、仏教とか宗教が大好きであった。そんなことがわかったのは、そういう仕事をやり始めてからであった。  
 ▽      
まあ、それでなんとかこうして69歳になっても、暮らしていける道を歩んできたといえるかなぁ。 この先のことは全くわからない。

先の見えない航路をいつも進んでいる。波しぶきは来る、時化もくる。羅針盤も正確ではない。そもそも、どこにいくかという目標すらはっきりしていない航海なんだから。  

目が覚めて起きるのは、明け方3時

寝るのは早いよ。20時だ。
あかりを寝かしつけるのが役目。
だが、いつもおとうちゃんが先に眠ってしまう。司馬遼太郎の本を数ページ読みながらすとん。いまは「新選組血風録」。
司馬遼ってすごいな。この時代の巨匠、司馬遼太郎松本清張。巨大すぎる。
 ▽
目が覚めて起きるのは、明け方3時。
起きたら、薪ストーブに火をつけて室内を温める。
その気配を察知して、あかりが目を覚ます。「トイレに行くので一緒に行ってほしい」という。

「おとうちゃんは、いまから仕事するからね」というと。あかりは、「さみしいのでとなりで寝てほしい」という。
手をつないで寝る。
そろそろ、いいかなと布団を出ようとすると、はしっと手を掴まれ「だめー」といわれる。
ううむ。仕方がないなあ。
 ▽
しかし、そのまま寝ているのもつらいぞ。
坐禅スタイルでヴィパッサナー瞑想。呼吸に意識を向けるのみ。
呼吸にあわせて、からだが膨らむ、縮む。それだけ。
やがて静かになる。するりと寝床を出てパソコンに向かう。

ゲームに必要なことは3つある。「1つは、敵と味方がいる」「2つは、ルールがある」「3つは、始まりがあって終わりがある」

「おとうちゃん、戦いごっこしよう」
──よしきた。

よくプロレス技をかけあう。
イノキ・ボンバイエ! との掛け声で戦う。
大外り、ウェスタン・ラリアート、パイルドライバー、アリキック、クロスチョップ、十六文キッキ、脳天唐竹割りと次々とワザを繰り出す。
ついには、袈裟固め。ワンツースリー。

「おとうちゃん、く、くるしいーー。それ卑怯だ。反則だ。ルール違反だ。だって、お父ちゃんのほうが大きいんだから、上に乗られたらあかりは不利でしょう。」
 ▽
──なにいってるんだ。そんなルールはないよ。ルールを守るためには、合意が必要なんだ。上にのったらダメというルールがあるとしたら、二人で合意してから戦わないといけない。

そんなやりとりをしている。

──これはゲームなんだ。ゲームに必要なことは3つある。「1つは、敵と味方がいる」ということ。「2つは、ルールがある」ということ。「3つは、始まりがあって終わりがある」ということだよ。
 ▽
まあ、そんな新年である。
はて。こうしたことを言う自分の根拠はどこから来ているのかなあと確認していたら、サイエントロジーの「思考の原理」から来ている。で、調べてみた。

サイエントロジーは、トム・クルーズなどが生き方の基礎にしているものの考え方。かれが来日した時、安倍首相に、ロン・ハバードサイエントロジー創始者)の本を渡していた。だが、ドイツなどでは布教が禁止されている、ちとアブないとみられている宗教団体でもある。

ただなにかを信ずるという宗教とは違い、ものの考え方、思考法を整理させ、バグ(脳細胞のシステムの不具合)があれはそれを解除するみたいな手法がある。

友人がサイエントロジーセミナーを莫大な受講料(別荘一軒分)を払って受けていたのだが、途中で挫折してしまった。もったいない。かれがもっていた本を譲り受けて読むようになった。思考の整理に役に立つ。
 ▽
「人が勉強をあきらめたり、混乱したり、学ぶことができなかったりする唯一の理由は、その人が理解していない単語や語句を通り過ごしてしまったから」と述べられるむ。

で、大切なのは、まず「言葉の概念をはっきりさせる」ところからスタートする。

インド哲学とも通じる。ワーナー・エアハードらがはじめたアメリカの自己啓発セミナーの源泉のように思うこともある。

たとえば、ゲームについて、「思考の原理」から抽出してみる。なに言っているのか難しいが、ぼくにはなおもしろい。以下、いくつか適当にあげてみる。
 ▽

存在(アペアレンシィ、リアリティ、生存)には三つの状態がある。
これら三つの状態が、人生を構成している。
それらはBE(~である状態、~になる状態など存在状態)、DO(行なうこと、すること)、そしてHAVE(持つこと、所有すること)。

人生というのはゲームにたとえると、最も良く理解できる。人生に深く入り込んでしまったり、生活の中にどっぷりと埋もれたりしないで、人生の外側にたってみるなら、人生というのは私達にとって、ちょうど私達が今いる地点から、何かのゲームを見ているかの如くに見える。
 ▽
人生の中に存在しうる苦しみ、痛み、悲惨、悲しみ、そして労苦の数々にもかかわらず生存する理由というのは、人がゲームをしなければならないのと同様の理由からなのだ。すなわち、このゲームというのは「興味」「闘争」「活動」および「所有」のために行なわれるのです。
 ▽
人生というゲームは「HAVINGNESS」(ハヴィングネス)へ向けて、「DOINGNESS」(ドゥーイングネス)を達成する為に「BEINGNESS」(ビーイングネス)を選択するという事を要求する。
これらの三つの状態は、人生にかかわるところでは、優先順位が与えられている。BEたる能力は、DOたる能力より大切であり、DOたる能力はHAVEたる能力より大切なのだ。
 ▽
いろんなゲーム(戦い)の要素(要因)を研究すると、私達は自分自身がこの人生の要素を所有しているのに気づく。人生は一つのゲームなのだ。ゲームというのは、自由(FREEDOM)、障害(BARRIERS)、そして目的(PURPOSES)から構成されている。自由は、障害の中に存在する。障害だけの状態と同様、自由だけの状態というのは、ゲームが存在しない状態のことだ。
 ▽
人間は、あまりにも多くの障害に縛りつけられているがために、自由というものにあこがれる。しかしながら、完全なる自由に入り込んでしまうと、人は目的を持つこともなく、みじめなものなのである。
障害の中にこそ、まさに自由は存在する。もし、障害のことも自由のことも知っていたなら、そこには人生も生活も幸福も、そしてゲームも存在しうる。
 ▽
そして。こういうことを述べてもいる。

愚かさの上にのっかっているのが戦争であり、この愚かさこそが我々をすべての最終戦争へと導く。この地球上にある真の野蛮性というのは、愚かさのことだ。無知の黒いがらくたの中でのみ、イデオロジーの分別のない闘争が繰り広げられる。

無知な人々は、無知な支配者を選ぶ。そして無知な支配者こそが戦争へと導く。そして今度引き起こされる戦争というのは、その後の地球に永遠なる沈黙をもたらす。

あなたたちの仲間や彼らの家、子供、所有物、そして彼らの将来のすべてが放射能に汚染された街路で終わりをむかえ横たわる時、私達にはもっと一生懸命働けば良かったとか、私達の議論にもう少し慎重であれば良かったと悔やむような時間は残されていない。

「コロナにかかってね」 「うちの子、もう学校やめちゃった」

「コロナにかかってね」
「うちの子、もう学校やめちゃった」
この二つの話題がよくでてくる。
 ▽
近しい人たちは、もうほとんどコロナにかかった。あるいは、いまかかっている。
うちも家中コロナにかったたのが8月。完全回復まで一ヶ月。

もうコロナはインフルエンザのレベルといえるが、症状はインフルよりはきつい。
ちなみに致死率においては、インフルよりも低い。

──季節性インフルエンザの致死率:60歳未満0.01%(コロナ0%)60代〜70代0.19%(コロナ0.18%)80歳以上1.73%(コロナ1.69%)※コロナのデータは2022年7〜8月

でも、みんなマスクしている。
ワールドカップもエリザベスの葬儀も、G7もG20も、みんなしてないのに。

うちは、マスクなし。さすがに病院に入るときは、入れてくれないのでマスクするけど。

こないだ行政の実地指導が入ったけれど、うちはマスクんしで対応。介護施設なのに。
なにしろマスクしたほうが、免疫力が落ちる。不潔。ウィルスに効果なし。自分が咳しているときは、つけたほうがいいが。
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いまの学校のありようを批判するわけじゃないけど、子どもたちは規則に縛られ、集団で学ぶことを嫌がっているし、親も行く必要なしと感じている。もう時代が大きく変わってきている。
とはいうものの、じゃあ子どもはどこに行く。ずっと家にいられるても困る。読み書き算盤は必要。
それに対応したスクールがもとめられる。実践・実習の場が求められる。

その場作り、その場所探し。それが、いま自分のミッションと感じる。
まあ、なにごともやってみないことには、わからない。自分からはじめる。やってみてわかる。うまくいかなければ、そこからまた、変えていけばいい。