過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「自分にはそういう発想は、まったくなかった」ということに気がつく。

7年前にわたしが始めた田んぼや炭焼き窯の手伝いによく来てくれた。彼はそのとき、40代全半。

サラリーマン的な生き方をしていたが、私の暮らしを見て「ああ、こんなに自由に生きられる世界があるんだ。こういう暮らしぶりを目指そう」と思ったらしい。これでも人の生き方に役に立っていたんだなあ。
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彼は、投資物件として、まちなかに数百万円の土地を購入した。貸して収益をあげようということだった。「ジモティ」というサイトがあって、情報発信には費用はかからない。反応を見るためにそこに情報発信した。

「借りたい」という会社がすぐに現れた。古紙ステーションだった。それで、月極契約。3年半もすれば投下資本は回収できる見込みだという。あとは、不労所得がつづく。それはすごい。
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資金に余裕のないなかで、数百万円の投資は、きわめてリスクがあったろう。しかし、成功した。これで次々と投資物件を買っては貸していきたいという。そのようにして、なかには10も20も土地や建物を買っては貸して利益を上げている人もいるのだという。

そうなったら、もう人生は、勝ち組だなあ。

ううむ。なるほど。世の中は資本を物件とかなにかに投資して、そこから回収していくという世界があるんだ。わかっている人には当たり前なんだけれど、「自分にはそういう発想は、まったくなかった」ということに気がつく。
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なにしろ、サラリーマンを12年以上やっていたし、父親は教師で公務員だった。自分で投資してビジネスするという発想がそもそもなかったのだ。せいぜい株式投資くらい。

そもそも「働く」というのは、会社員になること。そこでまじめにやっていれば、出世していく。できれば、大きい会社がいい。一流の会社がいい。そのためには、いい学校に入れば有利。そして、好きなことをしたら食っていけない。なんとか我慢して、努力して辛抱して勤めあげるのだ。そんな価値観であった。

日本の偏差値教育そのものが、そういうありようだったと思う。 まあいわば、「ホームレス」か「奴隷」のどちらかとしたら、「奴隷」の道を選ぶ。まじめで、聞き分けのいい奴隷の。
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それが、勤めだすと会社は面白くない。嫌な上司もいる。仕事もうまくいかない。 そんなとき、ある事業にスカウトされて会社をやめてしまった。で、そこもまたやめて、いつの間にかフリーランスになった。

望んだわけじゃなくて、あれれいつの間にか、だ。 そもそもフリーランスで暮らしていけるなんて思ってなかった。とくにワザもあるわけじゃない。自分の土俵も人脈もない。

しかし、悪戦苦闘しながら、「ああ、会社以外にも生きていく道があったんだ」と歩んでみて気がついた。ド素人で始めたライターと編集の世界であった。 そんなんで食っていけるのかなあ。とても不安定だ。でも、会社員よりもこちらのほうが自分には向いている。

好きなことを仕事にしたら、それ自体が楽しいから努力はいらない。自分は、仏教とか宗教が大好きであった。そんなことがわかったのは、そういう仕事をやり始めてからであった。  
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まあ、それでなんとかこうして69歳になっても、暮らしていける道を歩んできたといえるかなぁ。 この先のことは全くわからない。

先の見えない航路をいつも進んでいる。波しぶきは来る、時化もくる。羅針盤も正確ではない。そもそも、どこにいくかという目標すらはっきりしていない航海なんだから。