過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

聞き語りで自分史づくり

聞き語りで自分史づくりをしている。

先日、山の中の集落に嫁いできた方の話を書いたが、その続きである。
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当時の小俣集落はまだ完全電化されておらず、小水力発電であった。小俣川でタービンを回して水力発電し、各家庭に配電していた。

タービンは当番制で、週に1度、担当の者が山の上から川まで降りて行ってスイッチを切る。そして夕方になると、また降りていってスイッチをつけるのだ。

電力はとても弱い。せいぜい使えるのは、明かりとりくらいで、電化製品は使えなかった。洗濯機や冷蔵庫など使えない。アイロンも、炭を入れて伸ばすというやり方であった。そもそも、アイロンをかけるようなものを着ることなどはなかったが。

テレビはかろうじて見えた。しかし、電圧の変化で画面が小さくなったり大きくなったりした。そんなテレビで、「愛と死をみつめて」というドラマを見ていた記憶がある。

「この電化時代に、これから先どうやって生きていくんだ」。
兄が小俣に来た時にそう言ったものだ。

当時の小俣の住民は、12人くらい。店などは一つもない。平城という集落まで、片道1時間余かけて行った。

学校は石切に小俣分校があった。小俣は世帯数は少なかったけれども1世帯で5人ぐらい子供がいたので、10人余の生徒が通っていた。小学校まで4キロの山道。大人でも1時間かかる道のりを、荷物を背負って歩いた。

遺産争いの典型的なケース

ひとり暮らしの親が倒れる。子のところに世話になる。
親は預金など子にまかせる。すると、子は親の財産を勝手に頻繁にATMで引き出して使い込む。

親が死ぬ。他の子たちは相続の時、財産がすごく減ってしまったことを知る。それで、遺産相続の分割が決まらない。もめる。

使い込んだ子は、親の面倒をみたのだ。その費用だ。介護の寄与分だ。なにより親から了解を得ていた。合意があった。使い込みじゃないという。しかし、尋常ではない使途不明金

結局、遺産分割が決まらない。
それで、家庭裁判に申し立てて遺産分割の調停になる。やはりきまらない。
使い込んだ子に対して、地裁に「不当利得返還訴訟」を起こす。

というのが遺産争いの典型的なケース。

虫除けスプレーを試作中

虫除けスプレーを試作中。

ドクダミホワイトリカーに漬けたもの。これは、かなり効果あり。水虫も治ってしまう。

5日前にミントをホワイトリカーに漬けてみた。こちらもかなり効果がありそう。リキュールとしてすこし味わってみたら、かなりおいしい。

ヨモギも効果がありそう。ドクダミヨモギもあまりに身近すぎて、大したことがないと思われているけど、すごいのかもしれない。

それから、ビワの種もホワイトリカーに漬けておくと、かなりおいしいリキュールとなる。杏仁豆腐のような香り。いろいろお試し。

お寺がやすらぎの場。くつろぎの場。交流の場になっていた。

中国は上海、そして台湾しか旅したことはない。
ふたつは、思想的に相容れないけれども、感心したことがある。

上海では、あちこちの公園でお年寄りたちが、社交ダンスをしていた。音楽をかけて。

かつては、法輪功(気功法の一つ)が盛んだったと思うが、盛んになりすぎ、中国共産党を脅かすような勢力になり、大弾圧された。それで、社交ダンスなのかなあと思った。しかし、みなさん楽しそうに踊っていた。

台湾では、早朝の公園では、気功や太極拳をしている人がたくさんいた。
そして、お寺に行くと、みなさんお祈りしていた。お祈りの仕方がハンパない。心をこめて合掌し礼拝し、身体をつかって、参拝していた。

いずれも、日本ではありえない光景。いまの日本は、こうした場がほとんどない。祈る場はない。踊るなんて、みんなしない。
いずれも、日本ではありえない光景。いまの日本は、こうした場がほとんどない。祈る場はない。踊るなんて、みんなしない。

そうして広い境内では、長椅子を持ち込んで、お年寄りたちが昼寝。その枕元には、それぞれが竹ひごでつくった鳥かご。メジロみたいな鳥を育てて、その鳴き声を愛でている。自慢しあっている。

お寺がやすらぎの場。くつろぎの場。交流の場になっていた。

いずれも、日本ではありえない光景。いまの日本は、こうした場がほとんどない。祈る場はない。踊るなんて、みんなしない。

いがみあって、くたくたになって、それで丸くなる。霊的修行(サーダナ)

インド哲学では「ヴァーサナー」という捉え方がある。過去世からのもともと持っている自分のクセ。潜在意識の深いところ、生命の傾向性をいう。

人生はつまるところ、自分で選択した結果である。しかし、その選択は、「ヴァーサナー」からきている。自発的に選択したようでいて、過去世からの蓄積で選択させられているわけだ。

そのことを、しかと識別(ヴィヴェーカ)して、いまを生きる。

いま起きている現実を、過去世からのヴァーサナーの結果として捉えて、逃げないで直面していくところに、カルマ・ヨーガがある。

そんな話を妻としていた。

そんなことを横で聞いていたあかりが、「ヴァーサナーってなに?」と。

──それはね、ばあさまみたいなものでね。ばあさまが、あーだこーだとしぶとく指示してくるんだよ。

妻が「それを言うなら、じーさまってのがあるんじゃないの」。

──うん、そういうことだね。ばーさまとじーさまが、それぞれ過去世のカルマから、ぶつかりあって、いがみあって、くたくたになって、それで丸くなる。それが、霊的修行(サーダナ)ってことになるんだよね。

という自分たちの話であるが、心底わかっているわけじゃあなくて。

 

 

 

民謡を見直した

ともに声を響かせると元気になる。これはひとつの身体実感の真理。

きょうは、民謡を利用者の皆さんと歌ってみた。

歌ったのは、ソーラン節、炭坑節、よさこい節

民謡の底にながれている、暮らし、生き方、思い、情念などが響いてくる。
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とくに、ソーラン節、すごいね。
民謡を見直した。

ヤーレン ソーランソーラン
ソーランソーランソーラン(ハイハイ)
沖の鴎(かもめ)に 潮どき問えば
わたしゃ立つ鳥 波に聞け
チョイ ヤサエエンヤンサノ
ドッコイショ
(ハ ドッコイショドッコイショ)

ヤーレン ソーランソーラン
ソーランソーランソーラン(ハイハイ)
今宵ひと夜は どんすの枕
あすは出船の 波枕
チョイ ヤサエエンヤンサノ
ドッコイショ
(ハ ドッコイショドッコイショ)

ヤーレン ソーランソーラン
ソーランソーランソーラン(ハイハイ)
男度胸なら 五尺の身体(からだ)
どんと乗り出せ 波の上
チョイ ヤサエエンヤンサノ
ドッコイショ
(ハ ドッコイショドッコイショ)

ヤーレン ソーランソーラン
ソーランソーランソーラン(ハイハイ)
沖の鴎が 物言うならば
便りきいたり 聞かせたり
チョイ ヤサエエンヤンサノ
ドッコイショ
(ハ ドッコイショドッコイショ)

ヤーレン ソーランソーラン
ソーランソーランソーラン(ハイハイ)
沖の鴎の 啼く声きけば
船乗り稼業は やめられぬ
チョイ ヤサエエンヤンサノ
ドッコイショ
(ハ ドッコイショドッコイショ)

死ぬ瞬間まで、悪戦苦闘して、悪あがきしつづけて死んでいく

死を迎えるときって、「いい人」になるとよく聞く。
意地悪そうな人、イライラしたりよく怒っている人。そんな人が、穏やかでとてもいい人になっていく。そうしたら、数か月後に亡くなった。

……みたいな話はよく聞く。

ある友人も、透明で無欲でとてもいい人になっている。もうそろそろお迎えが来るんじゃないのかなあと思ったりしているんだけど。

きょうは台所で、妻に

「わしは、そんなに長くないかもしれんよ。あと数年かも」
そう言うと、妻いわく。
「あなたは、全然、透明じゃないし、いい人じゃないし、憎たらしいところがたくさんあるので、きっと死なないわ。長生きするように思う」

そう言われたのだった。

まあともあれ、ぼくはきっと、死ぬ瞬間まで、悪戦苦闘して、悪あがきしつづけて死んでいくんだと思う。それでいい。それがいい。

ほんとに「いい人」というのはいるんだよね

なんというか、ほんとに「いい人」というのはいるんだよね。会っていて、──ああ、この人いい人だなぁ。実直というか素朴というか。裏がないというか腹黒くないというか。とにかくいい人。

あれこれ計算してしゃべる人、相手の心を考えてしゃべる人、いろいろ思惑のある人、そういう人と話すと、こちらもそうなので、いろいろ思考エネルギーを使うので消耗するんだ。

ほんとに、なんにもない人、さっぱりした実直の人と話すと、心が落ち着く。心が休まる。

かつてぼくは、よくインドをよく旅した。インドでは、実直で誠実なじいさんによく出会った。言葉は通じないけれど、じわっと素朴さが伝わるような。

カンカン照りの太陽の下、大きな樹の下で、そんなじいさんとじっと座っていたことがあるなあと思い出した。

この山里にも、そういう「いい人」ってたまにいる。そういう方と出会うとうれしいというか、ありがたいというか。

 

飽きっぽい自分が、書いていくことだけは、けっして飽きない

まともな文章を書いたことはなかった。学生時代、ちゃんとした公の文章など書けなかった。原稿用紙に文字を書いていくなんて、楽しいと思えなかった。

当時、ワープロのような便利なものはなかった。会社に就職して数年、本社にワープロが入った。機械は100万円以上していた。記録媒体は、8インチのフロッピーディスクだ。
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文章が書けなかったのは、どうしてか。
それは、「誰に向かって書くか」が明確じゃなかったことにある。

文章というのは、漠然と大衆というか抽象的な人間に対して書くものだと思っていた。それは、風に向かって灰を撒き散らすようなもので、内容は拡散する。何を言いたいのかわからない。さらには小難しい文章がカッコいいと思っていたのだから、始末に悪い。
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文章修行になったのは、パソコン通信だった。当時は、NIFTY-Serveの仏教コミュニティ。相手がいてやりとりして文章を書くので、語りかけるように書くことを覚えた。友達もたくさんできた。

講演などでもそうだけど、たくさんの人に向かって語るのは、とても難しい。自分の頭の中の観念に向かって喋るようになってしまう。

ところが誰かが質問してくれると、その人に向かってしゃべるわけで、具体的で伝わりやすい。その人の問題意識とか聞きたいことが見えているので、語りやすい。しかも、質問に応じて瞬時に出てくる話のほうがいきいきする。
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文章も同様で、友達とか、特定の人に向かってしゃべるように文章にすれば、すらすらと書ける。それはパソコン通信のやりとりで体得したのだった。

いまは頭にひらめいたことを、iPhoneに向かって喋って音声変換して書いている。ひらめきを文章にするのは、頭が整理されてくる。飽きっぽい自分が、書いていくことだけは、けっして飽きないのだ。

 

さぁ仕事するぞーと言うと、あかりがやってくる。

さぁ仕事するぞーと言うと、あかりがやってくる。
「お父ちゃん遊んでぇ」。
やれやれ仕方がないなぁ。
じゃあ絵本読もうかというと、「いやだぁー」。
じゃあ将棋やろうかというと、「いやだぁー」。
じゃあ川で石積みやろうかというと、「いやだぁー」。
じゃあダンボールアートというと、「いやだぁー」。

──じゃあ、何やりたいの?
「戦いごっこぉぉ」。

これはプロレスの技をかけるわけだ。尾てい骨割り、16文キック、ブレーンバスター、人間風車、水平打ち、クロスチョップ、大外刈り、巴投げ、これらを繰り出して戦うんだけれども、とても疲れる。

──お父ちゃんはそれはイヤだ。
すると、あかりは不機嫌になって泣き出す。

さて、どうしたもんかなぁ。
というところで、いつも何かが起きていくことになる。

あかりは、足を投げ出したお父ちゃんの靴下に穴を見つけた。その穴を広げようとする。
お父ちゃんの靴下を脱がそうとする。お父ちゃんはそれを阻止する。そういうゲームになった。

あっけなく靴下は脱がされてしまった。今度は足の親指とひと差し指でティッシュペーパーを切るゲーム。あかりも一緒に足の親指とひと差し指で綱引きゲーム。
今度はもっと厚い紙でやってみようか。足の指で引っ張り合いのゲーム。

そのうち暗くなってきた。
──そうだ、やっぱり畑に水やりに行こう。
あかりは「行かない」と言う。けれども、後でトコトコついてきた。ホースから水をじゃんじゃん出しているのが面白くて、はまっていた。

畑では、丹波の黒豆が鳩に食べられずに芽を出していた。今年は大豆だけは、ちゃんとできそう。
空芯菜と藍と唐辛子は、さてどうなるかわからない。
荒地でも育つ大豆やサツマイモ。とりあえずはこういったものから作っていく。

石地蔵を彫りに

左近さんが、昨日も石の地蔵を彫りに来てくれている。
うちはガサガサしている空気だけど、左近さんがたんたんと集中して彫っているので、落ち着いた空気が流れる。

「こうして石を彫っているから生きていられる。救われているんだ。これがなかったら、もう生きてないかもしれない。だって何も人生の目標がなかったんだから……」。

そう言っていた。息子さんの供養のために石を彫り出したのが半年前。ぼくも左近さんに教わってコツコツと石を叩き始めている。

左近さんのお師匠さんが遠藤さんだ。
遠藤さんは先日、うちの施設を訪ねてくれた。
雨の降る中、すごい勢いで石を彫っておられた。
3時間ほどで完成。
帰りに「これは施設に献納します」と言ってくださった。いま宝物として置いてある。

その遠藤さんの文章がとてもいいので紹介。

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音声入力(喋ればテキストに変換)と一発検索

音声入力(喋ればテキストに変換)は、Googleドキュメントの精度が高い。ただ、パソコンに向かわなくちゃいけない。

歩きながら寝っ転がって入力するには、やはりiPhoneがラフでランダムでよい。
iPhoneのSillyは精度がいいが、1分くらいで切れる仕組みになるのが煩わしい。それで時間制限のないspeechyというアプリを使う。

文字変換の精度はかなり落ちる。それでも気楽さではこちらを使っている。とくに、車を運転しながらおしゃべりをして音声入力をするのが便利で楽しい。

車の振動をひろうので、イヤホン付のマイクで喋って入力している。ただ山里なので、通信が切れて全然入力されてなかったりする。
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iPhoneに入力したままでは意味がない。Evernoteと同期することが大切。帰宅してパソコンに向かって、Evernote上で編集する。

Evernoteは、検索が迅速。ディレクトリー(階層化)で整理しない。そんなことしたら、面倒だ。整理しないで一発検索。何千、何万というデータから「単語」ひとつで、瞬時に呼び出してくれる。
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編集のポイントは無駄なことは、削ぎ落とすのみ。たいせつなことは、そこの文字をボールド(太字)にしておく。そこをメインに掘り下げる。

あとは、パソコンの音声機能を使って、パソコンのスピーカで声に出してもらう。それを聞いて校正するという流れだ。

3つに集約する

企画書はよく書く。
出版社向けの企画やら助成金の申請やら。

企画書の場合は、タイトルに全てが集約される。

「で、結局、なにを言いたいの?」
「で、何をするの?」
それにたいして、明快に「これをやる」と伝えられるかどうか。

言いたいことは「1行」とする。

背景とかねらいとか、事業内容とか、波及効果とかいろいろな項目がある。
それらは「3点」で書く。3つに集約する。① ② ③と。

2つでも4つでも5つでもいいんだけど、
2つは座りが悪い。4つとか5つだと多すぎて、伝わりにくい。
つねに「3」。それが見やすい、わかりやすい。

言いたいことは「1行」。
それをくわしく述べると「3点」に。
さらに、その一点ずつ展開するのは、また「3つ」。
これが伝えやすい。なにより自分の頭の中が整理されていく。

なんというか、宇宙のはからい。


もしもだよ。あかりがいなかったら、こんなに忙しいことはない。まったりと悠々と暮らしていた。生き方に余裕があるんだろうなあ。

しかし、あかりがいるので、がんばれる。学びがたくさん。創作意欲も湧く。次々と課題を与えられて、自分の魂磨きになっている。

いまやるべきことは与えられている。それを、ちゃんとやるのみ。人生、それしかないなぁ。最大の公案。なんというか、宇宙のはからい。

そう妻に語ると、声を上げて笑ったのだった。

 

音声入力ソフトでの取材 山奥に嫁いだ人の話

家に到着すると、驚いた。なんと、すでに結婚式の用意がしてあった。そんなこと聞いてなかったのだ。
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生まれは兵庫県城崎奈佐村。日本海に面している村で、城崎温泉の近く。いまは豊岡町という。

結婚したのは、22歳になったばかりのときだった。
夫の住まいは、当時は周智郡春野町小俣という、たいへんな山の中にあった。標高600メートル余。オート三輪で走っていると、雪が風で横に降ってくるのには驚いた。

婚約をしてから、父を伴って小俣を訪ねた。
あまりに険しく、あまりに遠い山の中にあることに父は閉口した。歩くたびに
「おい、まだか。まだなのか。まだ着かないのか」と言っていた。
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家に到着すると、驚いた。なんと、すでに結婚式の用意がしてあった。そんなこと聞いてなかったのだ。
16畳の部屋に、親戚がずらっと、コの字型に並んでいるではないか。
着物の打ち掛けもカツラも用意されていた。

どうして、そんなに早く結婚式を挙げさせられたのか。
その年は「申年」で、申は「去る」に通じるということで、節分前に式を執り行うのがいいという。こんな山奥に来てくれる嫁がいるのなら、急いで式をあげたほうがいいという思いだったろうか。

父はあまりの秘境のような山奥に驚いたが、「人の幸せは、どこに住んでいようが関係ない」と言った。
母は家にいて、いつも雨戸がガタンとなるたびに「娘が帰ってきたんじゃないか」と思ったと言った。
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農協の仕事を辞めて小俣に来た時は、母も一緒に来て二十日間、仕事を手伝ってくれた。
兄は東南アジアの視察旅行の帰りに寄ってくれた。弟は、お茶用の薪集めで、薪を背負ったりして手伝ってくれた。
夫の家は、お茶を生葉から揉んで乾燥するまで一貫した工場を持っていた。

電気は明かりとりくらいで、電気製品は使えなかった。小俣の川で水力発電をしていた。電力が弱いのでテレビを見ても画面が小さくなったり大きくなったりした。洗濯機などを使える状態ではなかった。
小俣に来たのが昭和31年、出たのは45年。14年間、小俣にいたことなる。
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小俣の山を出るきっかけは、娘が幼稚園に行かなくてはならなくなったこと。そのために山を出たいと思った。折しも、春野町に紳士服の製造メーカー「ダーバン」の工場が進出することを知った。

夫に内緒で、「ダーバン」の面接にでかけた。これ幸いに、夫にも仕事があるというではないか。それで、姑、夫、娘の一家4人で小俣を出て、移住することになった。

もしも「ダーバン」の工場が春野町に来なければ、そのままずっと小俣で暮らしていたかもしれない。まさに、人生の岐路だった。(続く)
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これは音声入力のソフトで取材のトライアル。
これまではメモしたりICレコーダをテープ起こしして書いていく。
今回は、やりとりしながら音声入力ソフトで、ぼくが喋ってテキスト変換してみた。10分くらいの話がそのままテキストになる。