過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

音声入力ソフトでの取材 山奥に嫁いだ人の話

家に到着すると、驚いた。なんと、すでに結婚式の用意がしてあった。そんなこと聞いてなかったのだ。
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生まれは兵庫県城崎奈佐村。日本海に面している村で、城崎温泉の近く。いまは豊岡町という。

結婚したのは、22歳になったばかりのときだった。
夫の住まいは、当時は周智郡春野町小俣という、たいへんな山の中にあった。標高600メートル余。オート三輪で走っていると、雪が風で横に降ってくるのには驚いた。

婚約をしてから、父を伴って小俣を訪ねた。
あまりに険しく、あまりに遠い山の中にあることに父は閉口した。歩くたびに
「おい、まだか。まだなのか。まだ着かないのか」と言っていた。
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家に到着すると、驚いた。なんと、すでに結婚式の用意がしてあった。そんなこと聞いてなかったのだ。
16畳の部屋に、親戚がずらっと、コの字型に並んでいるではないか。
着物の打ち掛けもカツラも用意されていた。

どうして、そんなに早く結婚式を挙げさせられたのか。
その年は「申年」で、申は「去る」に通じるということで、節分前に式を執り行うのがいいという。こんな山奥に来てくれる嫁がいるのなら、急いで式をあげたほうがいいという思いだったろうか。

父はあまりの秘境のような山奥に驚いたが、「人の幸せは、どこに住んでいようが関係ない」と言った。
母は家にいて、いつも雨戸がガタンとなるたびに「娘が帰ってきたんじゃないか」と思ったと言った。
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農協の仕事を辞めて小俣に来た時は、母も一緒に来て二十日間、仕事を手伝ってくれた。
兄は東南アジアの視察旅行の帰りに寄ってくれた。弟は、お茶用の薪集めで、薪を背負ったりして手伝ってくれた。
夫の家は、お茶を生葉から揉んで乾燥するまで一貫した工場を持っていた。

電気は明かりとりくらいで、電気製品は使えなかった。小俣の川で水力発電をしていた。電力が弱いのでテレビを見ても画面が小さくなったり大きくなったりした。洗濯機などを使える状態ではなかった。
小俣に来たのが昭和31年、出たのは45年。14年間、小俣にいたことなる。
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小俣の山を出るきっかけは、娘が幼稚園に行かなくてはならなくなったこと。そのために山を出たいと思った。折しも、春野町に紳士服の製造メーカー「ダーバン」の工場が進出することを知った。

夫に内緒で、「ダーバン」の面接にでかけた。これ幸いに、夫にも仕事があるというではないか。それで、姑、夫、娘の一家4人で小俣を出て、移住することになった。

もしも「ダーバン」の工場が春野町に来なければ、そのままずっと小俣で暮らしていたかもしれない。まさに、人生の岐路だった。(続く)
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これは音声入力のソフトで取材のトライアル。
これまではメモしたりICレコーダをテープ起こしして書いていく。
今回は、やりとりしながら音声入力ソフトで、ぼくが喋ってテキスト変換してみた。10分くらいの話がそのままテキストになる。