過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

飽きっぽい自分が、書いていくことだけは、けっして飽きない

まともな文章を書いたことはなかった。学生時代、ちゃんとした公の文章など書けなかった。原稿用紙に文字を書いていくなんて、楽しいと思えなかった。

当時、ワープロのような便利なものはなかった。会社に就職して数年、本社にワープロが入った。機械は100万円以上していた。記録媒体は、8インチのフロッピーディスクだ。
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文章が書けなかったのは、どうしてか。
それは、「誰に向かって書くか」が明確じゃなかったことにある。

文章というのは、漠然と大衆というか抽象的な人間に対して書くものだと思っていた。それは、風に向かって灰を撒き散らすようなもので、内容は拡散する。何を言いたいのかわからない。さらには小難しい文章がカッコいいと思っていたのだから、始末に悪い。
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文章修行になったのは、パソコン通信だった。当時は、NIFTY-Serveの仏教コミュニティ。相手がいてやりとりして文章を書くので、語りかけるように書くことを覚えた。友達もたくさんできた。

講演などでもそうだけど、たくさんの人に向かって語るのは、とても難しい。自分の頭の中の観念に向かって喋るようになってしまう。

ところが誰かが質問してくれると、その人に向かってしゃべるわけで、具体的で伝わりやすい。その人の問題意識とか聞きたいことが見えているので、語りやすい。しかも、質問に応じて瞬時に出てくる話のほうがいきいきする。
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文章も同様で、友達とか、特定の人に向かってしゃべるように文章にすれば、すらすらと書ける。それはパソコン通信のやりとりで体得したのだった。

いまは頭にひらめいたことを、iPhoneに向かって喋って音声変換して書いている。ひらめきを文章にするのは、頭が整理されてくる。飽きっぽい自分が、書いていくことだけは、けっして飽きないのだ。