過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

電話で移住相談をよく受ける

電話で移住相談をよく受ける。タイミングがいいと、いろいろおしゃべりとなる。いそがしいと、ぶっきらぼうだ。あかりが泣いてたりするしね。

あとは、電話で得た相手の感じ・エネルギーにもよる。相手は、逆に「この人って感じが悪いわぁ」と思っているかもしれない。まあ、これはビジネスじゃないので、縁があれば役に立たせてもらうというありようなのだ。
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とくに春野に住んでもらおうという意図はない。その人が、価値が高まるようないい場所があれば、どこでもおすすめする。

なにをしたいのか、どんな場所がいいのか、予算はどれくらい、仕事は、それらによって選択肢が沢山ある。

ぼくは縁があって春野に移住して9年。しかし、もしも、10年前に戻って移住地を求めるとしたら、まずは「温泉のある所」「広葉樹の森のある所」だ。

疲れても温泉があると、疲れがとれる。友人が訪ねてきて、一緒に温泉に行っての長話も楽しい。月夜に森の下を散策したい(スギやヒノキの密集した森では、そういう気になれない)、笛など吹いてみたい。
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ともあれ「住めば都」という通りで、暮らしてみればどこでもいいのかもしれない。集落や隣家との付き合い、日当たり、見晴らし、風通し。交通機関医療機関、子育て環境、いろいろな要素がある。一概には言えない。できれば、首都圏にクルマで3時間以内って所がいいのではないかとも思うが。

その人に応じた、その人学びの場が見つかる。そして、たいせつなのは、移住者同士と地元のネットワーク。いい友人に恵まれれば、暮らしは心身ともに豊かになる。自分としては、その点と点を繋ぐ役目とも思っている。

エネルギーの充電、いわば生命力の深化と透徹のために、ひとつまた唱題行にたちもどる。

ある人から、「アストラル体からエネルギーがだだ漏れしているよ。なので、なにをやっても疲れているんだよ」と言われた。まあ、アストラル体とかよくはわからないが、この数年、疲れているのは確か。エネルギーが弱っているのは確か。身体的実感だ。

エネルギーが漏れているのは、いろいろと考えごとをするからだと思う。「考える」というのは、相当に、エネルギーを放電しロスする。

いや、「考えるべきときにちゃんと考える」のは大切。しかし、どうでもいいときに、あれこれと先案じや後悔、いらぬ考えが入る。それでエネルギーが漏れていくのだと感じる。
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そこでやはり、瞑想に立ち戻る。入り口はたくさんある。ただただ坐る「只管打坐」もひとつ。そして、呼吸や身体的な動きに意識を向けていくヴィパッサナー(観の瞑想)もひとつ。マントラ瞑想(真言やお題目、声の響きに徹する)もひとつ。ただただ、祈るも一つ。

入り口はたくさんある。そして、ひとつに徹していくと、すべてが融合してくる。これが正しいとか、あれが間違っているというものはない。そう思う。
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だが、ちゃんと場をしつらえるのは大切。ということで、瞑想する場を机の近くに移動した。いつでも、座れるようにした。唱えられるようにした。

本尊は、とくにこだわらず。金剛界曼荼羅を背景に、十一面観音と阿弥陀如来を置いている。

ところが、仏像を安置してから、あかりが菩薩像の腕を持ったら、片手がぽろりと落ちてしまった。あかりはごめんなさいと反省してくれたけれど。さてきょうはボンドで補修せねば。
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「朝朝(ちょうちょう)・仏と共に起き夕夕(せきせき)仏と共に臥し、時時に成道し時時に顕本す」(傅大士の釈)

この文は、日蓮が弟子に行った「御義口伝」という『法華経』講義のエッセンスから引用したのだが(室町期の偽書らしいが、そのあたりはどうでもいい)、傅大士(ふだいし)の釈というのが、しらべてもわからない。制作者も、どこからか「孫引き」したのかもしれない。

まあ、ともあれ学者じゃないので、なんでもいい。エネルギーの充電、いわば生命力の深化と透徹のために、ひとつまた唱題行にたちもどる。朝と夕にきちんと祈り、ときに応じて坐る、声を響かせていく。

宗教と霊性は、どこが違うんですか

きょうはニール・ドナルド・ウォルシュの「新しき啓示」(The New Revelations)から。

珠玉の言葉がたくさん出てくるが、すこしずつ。
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──宗教と霊性は、どこが違うんですか?

一方は制度で、もう一方は体験だ。
宗教は、ものごとのあり方についての具体的な考え方を中心に築かれた制度だ。

その考え方が固まって石に刻まれると、教義とか教理と呼ばれる。そうなれば、とても反論はできない。組織的宗教は、とにかく教えを信じなさいと要求する。

霊性は、何かを信じろとは要求しない。それより、自分の体験に気づきなさいと促しつづける。

他人に言われたことではなく、自分自身の体験が自分にとっての権威になるのだと。
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新しき啓示  ニール・ドナルド・ウォルシュサンマーク出版)より

「自己の安らぎを学べ」伝承によるのではない、まのあたり体得されるこの安らぎ」を伝える。ブッダもそのように伝える(スッタ・ニパータ)。

仏教にしても、教義体系などはずっとあとから作られる。そして教団も組織もそうだ。

そうして、それらはつ台に強固になって固くなって、自由な魂を抑圧してくる。しかし、そのことでかえって、安心・安住する人々もたくさんいるわけだが。

「戦闘」での死ではない。「餓死」あるいは栄養失調に伴う病死。

戦没者230万人。そのうち約76%が終戦前の約1年間に集中している。そのうち73%が「戦病死者」。

「戦闘」での死ではない。「餓死」あるいは栄養失調に伴う病死が多い。その数、140万人(全体の61%)ともいわれる。

同僚の屍肉を食べて生きのびることもあったろう。そうしたことを素材にしたのが、映画「軍旗はためく下に」「ひかりごけ」。そして「ゆきゆきて神軍」。

ゆきゆきて神軍」では、実際に、死人の肉を食べて生き延びたことをドキュメンタリーで語らせている。

大岡昇平の「野火」の一節を引用する。死んだ兵士にたかったヤマヒルをつぶして、その血をすすって生きながらえるというすさまじい描写がある。

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私はその将校の死体をうつ伏せにし、顎に水筒の紐を掛けて、草の上を引きずった。頂上から少し下って、二間四方ぐらいの窪地が陥ちているところまで運んだ。その草と灌木に蔽われた陰で、私はだれにも見られていないと思うことができた。

しかし私は昨日この瀕死の狂人を見いだした時、すぐ抱いた計画を、なかなか実行に移すことができなかった。私の犠牲者が息絶える前に呟いた「食べてもいいよ。」という言葉が私に憑いていた。

飢えた胃に恩寵的なこの許可が、かえって禁圧として働いたのは奇妙である。

私は死体の襦袢をめくり、彼が自ら指定した上膊部(じょうはくぶ)を眺めた。その緑色の皮膚の下には、痩せながらも、軍人らしくよく発達した、筋肉が隠されているらしかった。私は海岸の村で見た十字架上のイエスの、懸垂によって緊張した腕を思い出した。

私がその腕から手を放すと、蠅(はえ)が盛り上がった。皮膚の映像の消失は、私を安堵させた。そして私はその死体の傍らを離れることはできなかった。

雨が来ると、山蛭(やまひる)が水に乗って来て、蠅と場所を争った。虫はみるみる肥って、死体の閉じた目の上辺から、捷毛のように、垂れ下がった。私は私の獲物を、その環形動物が貪り尽くすのを、無為に見守ってはいなかった。

もぎ離し、ふくらんだ体腔を押し潰して、中に充ちた血をすすった。私は自分で手を下すのを怖れながら、他の生物の体を経由すれば、人間の血を摂るのに、罪も感じない自分を変に思った。

この際蛭は純然たる道具にすぎない。他の道具、つまり剣を用いて、この肉を裂き、血をすするのと、原則として何の区別もないわけである。

私は既に一人の無辜(むこ)の人を殺し、そのため人間の世界に帰る望みを自分に禁じていた。私が自分の手で、一つの生命の歴史を断った以上、他者が生きるのを見ることは、堪えられないと思ったからである。

今私の前にある死体の死は、明らかに私のせいではない。狂人の心臓が熱のため、自然にその機能を止めたにすぎない。そして彼の意識がすぎ去ってしまえば、これは既に人間ではない。

それは我々が普段何ら良心の苛責なく、採り殺している植物や動物と、変わりもないはずである。この物体は「食べてもいいよ。」といった魂とは、別のものである。

私はまず死体を敵った蛭を除けることから始めた。上膊部の緑色の皮膚(この時、私が彼に「許された」部分から始めたところに、私の感傷の名残を認める)が、二、三寸露出した。私は右手で剣を抜いた。私はだれも見てはいないことを、もう一度確かめた。

その時変なことが起こった。剣を持った私の右の手首を、左の手が握ったのである。
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大岡昇平「野火」より)

大岡昇平は、フィリピン、ミンドロ島アメリカ軍の捕虜となる。帰国後『俘虜記』を執筆。「レイテ戦記」「武蔵野夫人」など。

 

石垣りん「花嫁」から

今朝、なにげに読んだ。こういうのを名文というんだろうなあ。
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私がゆく公衆浴場は、湯の出るカランが十六しかない。
そのうちのひとつぐらいはよくこわれているような、小ぶりで貧弱なお風呂だ。

その晩もおそく、流し場の下手で中腰になってからだを洗っていると、見かけたことのない女性がそっと身を寄せてきて「すみませんけど」という。
手をとめてそちらを向くと「これで私の衿(えり)を剃って下さい」と、持っていた軽便カミソリを祈るように差し出した。剃って上げたいが、カミソリという物を使ったことがないと断ると
「いいんです、スッとやってくれれば」
「大丈夫かしら」
「ええ、簡単でいいんです」と言う。
ためらっている私にカミソリを握らせたのは次のひとことだった。
「明日、私はオヨメに行くんです」
私は二度びっくりしてしまった。
知らない人に衿を剃ってくれ、と頼むのが唐突なら、そんな大事を人に言うことにも驚かされた。 でも少しも図々しさを感じさせないしおらしさが細身のからだに精一杯あふれていた。

私は笑って彼女の背にまわると、左手で髪の毛をよけ、慣れない手つきでその衿足にカミソリの刃を当てた。
明日嫁入るという日、美容院へも行かずに済ます、ゆたかでない人間の喜びのゆたかさが湯気の中で、むこう向きにうなじにたれている、と思った。

剃られながら、私より年若い彼女は、自分が病気をしたこと、三十歳をすぎて、親類の娘たちより婚期がおくれてしまったこと、今度縁あって神奈川県の農家へ行く、というようなことを話してくれた。
私は想像した、彼女は東京で一人住まいなんだナ、つい昨日くらいまで働いていたのかも知れない。 

そしてお嫁にゆく、そのうれしさと不安のようなものを今夜分けあう相手がいないのだ、それで・・・。 私はお礼を言いたいような気持ちでお祝いをのべ、名も聞かずハダカで別れた。

あれから幾月たったろう。
初々しい花嫁さんの衿足を、私の指がときどき思い出す。
彼女いま、しあわせかしらん?
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石垣りん「花嫁」から

あたりまえの日々の暮らしの起こること、何気ない出会いの深み。
文章って「なにを描く」かよりも、「どう描くか」だなあとも思う。
石垣りんは「 物を考えているのは頭でなく、手や足が感じたり考えたりしているのだ」とも言う。

宮本常一 母の思い出

尊敬する方に、宮本常一(みやもとつねいち)がいる。

日本各地を旅して、聞き語りで生き生きとした人々の暮らしを伝えた。民具、離島、村、農業技術、漁業、林業口承文芸、文化論など多彩なフィールドがある。「人間は伝承の森である」と常一はいう。

文章が読みやすい。わかりやすい。観念ではない、まさに呼吸している暮らしが伝わる。この「母の思い出」など、なんとも美しい。
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母の思い出

家がまずしくて、母は朝早くから夜暗くなるまで働かねばならなかった。何歳のときであったか、誰の背に負われていたのか、それはわからないが、母が恋しくて泣きにないて、見あげた空の松の上に月が光っていたのが、私が物心ついての最初の記憶であった。

いそがしくしてはいたが、母は私を可愛がって下さった。だから母について田や畑へいくのが好きであった。

薪をとるため奥山へゆくときなど、母はよく唱歌をうたってくれた。母は小学校へゆかなかった。小学校へゆく年の頃は子守奉公にいっていた。子供の守りをしながら教室のガラス戸越しに字をおぼえ唱歌をおぼえたのであった。

母に教えてもらった唱歌のうちのいくつかは、いまもおぼえている。その歌をうたうと、キラキラとまばゆいばかりに日の照る山道をのぼっていった日のことが絵のように思い出されてくる。母とあるく道はすべて美しかった。

あるとき母といっしょに山畑の茶を摘みにゆく途中、夕立にあった。大きな木が近くにいくらもあったが、大きい木には雷がよくおちるので、母は木の立っていない坂道の中ほどに、背負っていた大きな案籠を横にしておき、上へ一メートル四方ほどの筵をかけ、その籠の中へはいって雨をさけた。

足を折りまげて二人はいったが、母の足首は籠の外に出ていた。私は母に抱かれてジッとしていた。雨が真上のあたりで鳴っていた。しばらくすると雨は小降りになり、やがて西の空がはれてきた。

籠の中から出てみると、あたりは生きかえったように青々とした色が冴えていた。母は私を見て「おそろしかったの」といった。そのときの母をほんとに美しいと思った。

二人はそれから桑畑へいった。桑の葉がぬれているので摘むことができない。そこで枝をゆさぶって露をおとさねばならなかった。親子は桑畑の中を桑の露をおとしてあるいた。

すると夕立にぬれるよりもひどくぬれたが、頭の上に青い空があるとたいして気にならなかった。露をはらってしばらく休んでいると桑の葉はかわいてきたので、母は桑を摘みはじめた。夕立をさけるためにかなりの時間がすぎている。家には腹のすいた蚕が待っているはずである。

母は一心に桑の葉をとっていたが、やがて思い出したように唱歌をうたいはじめた。私も母の手伝いをした。それがどれほどのたしになったであろうか。夕方までには大きな籠が桑でいっぱいになった。

母はその桑籠を背負った。荷が重いから帰りは歌をうたわなかった。私は後からいっしょうけんめいについてゆく。休み場のあるところで休んではゆく。私も早く大きくなって母を助けたいと思った。

不平も愚痴もほとんどいわぬ人であった。そして冬になると毎日のように機を織り、それで着物をぬうて着せて下さった。家の中から機を織るオサの音がきこえると、私は安心して外で仲間たちと遊んだ。(一九六二年五十五歳)
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宮本常一伝書鳩のように」(平凡社)より:文章は、池谷が適当に改行しいる。

宮本常一は、生涯で四千日を旅に暮らしたという。距離にして十六万キロ(地球四周分)、三千を超える村を訪ね歩いた。行く先々の民家に宿を借りた。泊まった民家は千軒を越えるという。この浜松の山里にも訪ねてきている。

「火垂るの墓」

いつも終戦記念日のあたりに放映される「火垂るの墓」。
野坂昭如自身の戦争体験を題材とした作品だが、ほとんどの人はアニメだけだと思うが。(野坂昭如原作、制作はスタジオジブリ、監督・脚本は高畑勲
アニメは何度も見て涙する。しかし、原作は読んだことがなかった。短編だが、読点でつないでいく野坂の独特の文体でけっして読みやすいとは言えない。でも、一気に読める。
原作もさすがだが、あそこまでのアニメの作品に仕上げたというのは、高畑監督、スタジオジブリってすごい。
以下、原作を引用する。
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そや節子に滋養つけさせんならん、たまらなく苛立ち、ふたたび抱き上げて壕へもどる。横になって人形を抱き、うとうと寝入る節子をながめ、指切って血イ飲ましたらどないや、いや指一本くらいのうてもかまへん、指の肉食べさしたろか、「節子、髪うるさいやろ」髪の毛だけは生命に満ちてのびしげり、起して三つ編みにあむと、かきわける指に肌がふれ、「兄ちゃん、おおきに」髪をまとめると、あらためて眼窩のくぼみが目立つ。

節子はなに思ったか、手近かの石ころ二つ拾い、「兄ちゃん、どうぞ」「なんや」「御飯や、お茶もほしい?」急に元気よく「それからおからたいたんもあげましょうね」ままごとのように、土くれ石をならべ、「どうぞ、お上り、食べへんのん?」八月二十二日昼、貯水池で泳いで壕へもどると、節子は死んでいた。

骨と皮にやせ衰え、その前二、三日は声も立てず、大きな蟻が顔にはいのぼっても払いおとすこともせず、ただ夜の、蛍の光を眼でおうらしく、「上いった下いったあっとまった」低くつぶやき、清太は一週間前、敗戦ときまった時、思わず「聯合艦隊どないしたんや」と怒鳴り、それをかたわらの老人、「そんなもんとうの昔に沈んでしもて一隻も残っとらんわい」自信たっぷりにいい切って、では、お父ちゃんの巡洋艦も沈んでしもたんか、歩きながら肌身はなさぬ父の、すっかりしわになった写真をながめ、「お父ちゃんも死んだ、お父ちゃんも死んだ」と母の死よりはるかに実感があり、いよいよ節子と二人、生きつづけていかんならん心の張りはまったく失せて、もうどうでもええような気持。
(中略)
夜になると嵐、清太は壕の暗闇にうずくまり、節子の亡骸膝にのせ、うとうとねむっても、すぐ眼覚めて、その髪の毛をなでつづけ、すでに冷え切った額に自分の頬おしつけ、涙は出ぬ。

ゴウと吠え、木の葉激しく揺りうごかし、荒れ狂う嵐の中に、ふと節子の泣き声がきこえるように思い、さらに軍艦マーチのわき起る錯覚におそわれた。
(中略)
夜更けに火が燃えつき、骨を拾うにもくらがりで見当つかず、そのまま穴のかたわらに横たわり、周囲はおびただしい蛍のむれ、だがもう清太は手にとることもせず、これやったら節子さびしないやろ、蛍がついてるもんなあ、上ったり下ったりついと横へ走ったり、もうじき蛍もおらんようになるけど、蛍と一緒に天国へいき未亡人の家の裏の露天の防空壕の中に、多分、清太の忘れたのを捨てたのだろう、水につかって母の長じゅばん腰ひもがまるまっていたから、拾い上げ、ひっかついで、そのまま壕にはもどらなかった。

昭和二十年九月二十二日午後、三宮駅構内で野垂れ死にした清太は、他に二、三十はあった浮浪児の死体と共に、布引の上の寺で荼毘に付され、骨は無縁仏として納骨堂へおさめられた。
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火垂るの墓」(野坂昭如著 集英社)から引用

最近、引用したものを投稿することが多いが、手入力していない。そんな手間のかかることできない。
AdobeScanという無料アプリiPhone入れて撮影。それを、GoogleDriveに保存。さらに、GoogleDocumentで読み込むと、ほとんどテキストにできる。98%の精度だ。
近ごろはこの方式で、名作、論文などはテキストにしてデータ化している。まあ、ほとんど趣味だけど……。名作を読み返すことが多くなり、楽しい。

新聞、広告でエコバッグづくり

 
 新聞、広告でエコバッグづくり。大量に余っているパンフレットなどをつかって、いろいろと試作してみた。あかりのおもちゃなどを入れる。
大雑把。でも、なんとかつくれた。やりかたは覚えた。ほんの数分でできる。小さいものから大きいものまで。
デイサービスの開業申請の書類作り。これがとっても手間で疲れて、気分転換に作ってみた。

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日本山妙法寺を創始した藤井日達上人

たったいま、写真がやっと仕上がって届いた。いやあ、とってもいい顔だ。ほれぼれする。(右:修正前、左:修正後)

この方は、日本山妙法寺日蓮宗系)を創始した、藤井日達上人である。御年90歳くらいのときの写真だと思う。数多のお坊さんの顔に接してきたが、いつもトップクラスと感じるのは、この藤井日達上人である。

お寺を訪ねた時、御宝前に飾ってあったお師匠さんの写真があまりに色褪せていた。

「せっかくのお師匠さんのお写真、もったいないので、修正してあげましょうか」
「それはうれしいです。お願いできますか」と庵主さん。
「いいですよ。よろこんで。でも、いまいそがしいので、時間がかかるけど」

そう約束したのから、すでに半年くらいたってしまった。あれやこれやと忙しくて。加工作業は、妻がおこなった。

藤井日達上人は、中国大陸とインドに渡り布教。ガンジーとも親交が厚く、ガンジーもよろこんで団扇太鼓で南無妙法蓮華経と唱えた。ガンジーは、藤井上人に接して、日本の古武士の志を感じたようだ。

日本山妙法寺は、独身主義で妻帯しない。そして、平和運動を展開している。内輪太鼓を叩いて、アメリカ大陸などを行脚された。

インドには10余のストゥーパ(塔)と寺院がある。ぼくはインドをよく旅した時、よく寄らせてもらった(カルカッタ、デリー、ダージリンなど)。やっと、少しご恩返しができるかな。

 

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いろいろ出版の相談を受ける。

いろいろ出版の相談を受ける。
即、返事を出さないと、クビを流してくまっておられると悪いので、とりあえずの感想を伝えた。
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現時点での、ぼくなりの感想をお伝えします。原稿を全部読んでないので、申し訳ありませんが。あんまり引っ張っても、悪いので。

結論:現時点では、だしてくれる出版社はないとおいます。
もしも出してくれるとしたら、「自費出版」です。

「こんないいい原稿は世に出さないと、もったいない。ぜひ、広告宣伝料を折半して我が社から」というような自費出版系の出版社があります。たとえば、B芸社とかG書林とか、G舎ルネッサンスとかS潮社やK談社、S省堂になどの自費出版系、あるいは自費出版部門です。

いわば「読者」をみているわけではなくて、「著者」から売上を上げるのが目的といったらいいか……。

ので、200万円から400万円くらいとられます。下手すると500〜600万円。あるいは、1000部とか買い取ってくれとか。

ま、50〜100万円で出してくれる出版社もあります。いちりん堂(ぼくの出版社ですけど)でも可能ですけど、販売は難しい。

また、Amazonのオン・デマンド出版など、Amazonに並ぶので、とてもいいシステムです。キンドルもありますね。在庫の必要もない。集金も必要ない。ただ、売るのは難しいです。本を出しているという「ハクづくり」にはなるかと思います。

自費出版となると、なかなか売れなくて、在庫のヤマになって処分がたいへんです。でも、たまに売れたりすることもありますけど。

そこが出版の不思議です。水ものです。「B型自分の説明書」みたいなの本など、100万部くらい売れました。こちらはB芸社です。それから、「バナナダイエット」とか、ブームになりましたね。内容と関係なく、なにかのきっかで売れたりする。

いろいろ編集の「切り口」によって、売れる可能性はあります。が、いまは出版社の台所事業が苦しいので、難しいと思います。

そして、ニューエイジ系、スピリチュアル系、チャネリング系、悟ってしまった系の本は、もう世に氾濫しています。そのあたり差別化しないと、埋もれてしまいます。いまは、「マインドフルネス系」の本が売れ筋ですけどね。

たとえば、「マウイ島のマインドフルネス」みたいなタイトルなら、あるいは「お!?」と可能性を感じる出版社がいるかもしれません。

地道に、ブログで発信し、YouTubeで発信し、あるいはZOOMで定期的なネットのカウンセリング、ネットでのワークショップを開くとか、そういう過程で、やりとりを通して、すんと通るものがあらわれてくる。そして、練り上げていくというのも方法ですね。固定ファンが増えれば、出版社も動きます。

とりあえず、そんな感じです。でも、つねに可能性があります。ひとつ動き出すと、次につながる展開が訪れるんじゃないかと思います。

「丸山真男回顧談」つづき

丸山真男の「三島庶民大学」の続き。
こんなものすごい講座を普通の市民に対して行っていた。びっくり。
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丸山 庶民大学のこの講義で、ロマン主義ヘーゲル哲学とをはっきり分かつのは、というので、弁証法の論理と有機体の論理との違いを言ったりなんかしているのです。

――いまは、大学生には、もうわかりませんね。

丸山 そうですね。まさに「学問のすすめ」の時代ですね。すごい欲求です。今からは考えられないくらいです。

自己弁解になるけれど、一方的に知識人が押しつけたというのは、まったく実感と違うな。むこうから沸き上がるようにやってきて、こっちがややタジタジというのが実感です。

米屋さんに「いただきました」と言われると非常に嬉しいんだな。庶民はスノビズムがぜんぜんないでしょう。だから、わからせるのは大変だなと思った。わかろうとするものがなければ、そもそも教えようとしないです。

ぼくはだから、ドイツ理想主義のことを非常に褒めた上で、「しかし、「自由」の問題と「民族」の問題とがいちばん深い基礎づけをもった、まさにその国に於て、政治的自由と民族的統一の実現が最も遅れていたということは興味深い。

ドイツ人は政治的に社会的に自由を実現できなかったために、いわば内向して、精神の王国に於てその夢を満たした。

十八世紀末から十九世紀はじめにかけてのドイツは、政治的・社会的にみじめをきわめたのとちょうど反比例して、学問と芸術に於て比類なく輝かしい業績をあげた。

ゲーテ、シラー、ノヴァリスの文学、モーツァルトベートーヴェンシューベルトの音楽、カント、フィヒテヘーゲルの哲学。それらはドイツ民族の永遠の誇りであるが、他方それらは政治的・社会的な停滞という高い犠牲に於てかちえられたものであることを忘れてはならない。

そうして、一方、こうした高い芸術と哲学を生むほど優秀な素質にめぐまれたドイツ人が、その外部的環境を、生活環境を打開し、政治・社会制度を改善し、高めて行くという点でスタートからつまずき、この立遅れが後々までまつわりついたために、政治意識に於ては著しく他の欧州諸国民より劣位にあることが、どれほどドイツにとって悲劇的な結果をもたらしたか。我々はそれを二度にわたる世界大戦でまざまざと見せつけられた。

あの理性と教養を持った多くのドイツ人が、ヒットラー伍長とその周囲に集まる粗暴な乱暴者たち(突撃隊)の低級きわまる煽動にたやすく乗せられたということは、ほとんど理解に苦しむものがあるけれども、まさにこのことに、ドイツの生活と思想の間の著しい破行性を看破せねばならぬ。

ドイツ人はアングロサクソン人をば思想が浅薄だとか、物質主義的だなどと嘲笑していながら、二度までも自らの頭上に、その浅薄な物質主義者の支配を招かねばならなかったのだ」

ぼくの頭の中には、悪いけれども、いつも日本の岩波文庫的教養人があるのです。

英米人はドイツ人の様に日常生活から遊離したイデオロギーに陶酔しない。彼等はたえず学問のなかに生活をもちこみ、生活のなかに学問をもちこむ。

思想や「イズム」が肉体化していることが彼等の特徴だ。だからデモクラシーは単なる理論でなく、生活様式として躍動しているのである。苦いと思ったこと、正しいと思ったことは直ちに実現すべく外に向って働きかけ、社会的環境をかえて行く、内部を深め、豊かにすることと、外部的環境をたえず高めて行くこととをつねに併行させて行かねば第一級の国家、第一級の国民となりえない――これがドイツ哲学から我々が学ぶ一つの教訓である。
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丸山真男回顧談」(岩波書店)より

「丸山真男回顧談」おもしろかった

蝉しぐれ。こんなに暑いけど、エアコン無しで過ごしている。いま32.9度。

天皇制の探求から、丸山真男の著作を読み始めて、「丸山真男回顧談」(岩波書店)を一気に読んでしまった。

1946年頃、「三島庶民大学」というのがあって、そこで講座をもっていたのが面白い。報酬はお米。リュックで担いで帰ったという。

講師陣が、なにしろものすごい。東大の最高峰の学者たち。

川島武宜丸山眞男佐藤功大河内一男清水幾太郎中野好夫山本薩夫宮本百合子など。

そして、丸山真男の講座の一部が紹介されているが、またまたすごい。一部、引用する。
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ロマン主義を単純に反動思潮と断定してはならない。無限なるものへの魂の渇望の要求。

そこに含まれている人間個性の尊重、個性の生活全分野への発揚の主張は疑いもなくドイツに於ける個人意識のめざめであり、近代精神の最も貴重な産物である所の人間人格の尊厳への自覚がここに表現されている。

真の個人主義は英仏的な普遍的個人と、ロマン主義に於ける特殊的個性とが結合したところに成立するのである。
(中略)
初期のロマン主義者は、シュレーゲルにせよ、シェリングにせよ、皆フランス革命の勃発当初は、これをヨーロッパに於ける人間自由の戦ののろしとして熱烈に賛美したのである。

ただ、やがてフランス革命の進行がジャコバンの独裁とロベスピエールの恐怖政治を生み、「理性」を旗印とした革命が最も非理性的な粗野な人間衝動の解放による無秩序と暴力の混乱状態に陥るに従って、いたくその結果に失望し、やがてナポレオンの世界制覇となるに及んで、彼等のこれに対する反抗は、フランス革命そのものへの一般的反対へと転じて行った。

ということで、民族のありしよかりし日への憧憬。それへの陶酔によって現実の悲惨さを忘れようとしたというロマン主義の問題です。有機体的国家観がそこから生まれて、ロマン主義の論理がオポチュニズムになるということ。そのあとで、ロマン主義ヘーゲルとの関係を話した。

こんなのを、よく聴いてくれたと思います。ぼくの記憶では、途中で立ったりする人はいなかった。いっぱいなんです。

さっきの米屋さんなんかが聴いたのです。そして、これについて質問するわけです。ぼくは米屋さんに泊まっているから、米屋さんが二階へ上がって来て、「先ほど先生の言われたことで.......」と、その晩にやられるのです。
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丸山真男回顧談」(岩波書店)より

手づくり葬のすすめ─カネをかけず心をかけるおくり方

行政への開業申請書を書き始める。助成金の企画書とちがって、背景となる地域課題とか、必要性とか、事業内容とか、スケジュール、予算書とか必要ない。だが、いろいろと確認する事項があるので、手間はかかるなあ。

気分転換に書籍の企画書を書き出した。
「手づくり葬のすすめ─カネをかけず心をかけるおくり方」
というタイトル。
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あたらしい本作りの方法にトライ。目次をちゃんとつくってから書いていくという、当たり前のことなんだけど。

①Mindmaster(マインドマップのアプリ)でコンセプトをつなげていく。頭の整理のためである。この作業は思いつくまま、ゆるい適当感で行う。

②そのマップをExcelにエクスポートする。そうなと、表として大中小と項目別になる。

ExcelからGoogleスプレッドシートに移す(コピペ)。そこから、補足して埋めていく。Google上のCloudにすることで、複数の人との共同作業が可能となる。

④こうして目次ができあがっていく。あとは、小項目ごとに、短文を書き上げていく。

 

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あとは独学で生きるワザを磨いてもらうことにし

あかりは中学を出たら、もう、あとは独学で生きるワザを磨いてもらうことにしよう。
※「超独学法」を読む?あかり。本は逆さだけど。
これからの時代、よっぽど研究職になるなら別だけど、大学出ても意味があるとは思えない。高校にしても。


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日本の高校を無償化にしていないということで国連からも怒られている状態の日本。本来、大学を含め教育は無償化されていなければならない。
しかし日本の教育にかかる費用の問題はさらにある。一流大学に入る為には学費が私立高校並みに高い予備校にも通って競争をする社会になっている。
つまり高い日本の私立高校の2倍の学費を払えた学生が、やっと大学の学費を払う権利を得る様になっている。世界の3倍の非常識を通り抜けなければならない。
フランスでは子供を産むのも無料だし支援金も貰える。保育園、幼稚園、小中高、大学、大学院も無料。さまざまな給費もある。そして万が一貧困になったら日本とは比較にならく楽に生活保護が得られる。つい最近外国人に大学が有料になったがそれ以外は外国人も同じ。そこから来れば日本の酷さは目だつ。
フランスで大学が無料だというと、そうじゃないと言い出す人(私の家族を含めて)がいるので先に言っておきます。図書館費用などいくつかの諸経費はかかります。しかし卒業まで10万円もかかりません。おそらく他の国でも同じ様なことはあると思います。
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エリック CさんのTwitterから

 

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本作りの整理。思いつくままにアドバイスさせてもらったこと

本作りの整理。思いつくままにアドバイスさせてもらったことを整理。

①出版社:「企画書」を書いて、出版社の負担で本を出す。費用は出版社の負担。しかしいま出版社は確実に売れそうなものしか扱わない。「外部持ち込みの原稿は、みない」という出版社も増えてきた。

しかし、「あ、それはおもしろい。売れそうだ」という企画書がちゃんと編集者に通れば、可能性のないことはない。あるいは、確実に1,500部くらいは売れるというよみがあれば、可能性はある。

Amazonのオンデマンド(POD)出版:自分で「ひとり出版」ができる。在庫を持たなくていい。印刷製本、販売は一冊からでもAmazonが行う。

自分は、ホームページやYoutubeなどで広報していく。印刷経費(頁あたり5〜6円くらい)と販社に支払う経費(40%)。その他ISBN経費など。ただ、版下(本の形にデザインする)代は必要。それは、数十万円くらいかかる。

自費出版+販売:書店展開するには、東販・日販がないと店頭に並ばない。東販・日販に口座のある出版社を借りる。発行は自分のところ、発売は出版社。掛率が55%から60%くらいか。全国の書店や図書館に展開できる。

しかし、印刷製本は自分持ち。初版,3000部として、製本レベルにもよるが、数10万〜100万円以上はかかる。

④いわゆる自費出版系の会社:たとえばB芸社、Gルネッサンス、G書林、K談社やS省堂やS潮社の自費出版部門。しかし、200〜500万円くらいかかる。友人はS潮社で400万円。一流どころから出したという満足はあるが、ちゃんと売れるかどうかは、わからない。つくるほうは、読者を見て作っているわけでもない。客は著者なので。

⑤原稿の作り方:ZOOMでやりとりしながら、インタビュー。それをもとに話したことを元に原稿作りも可能。

ちゃんと書ける人でも、人とのやりとりを通して、読みやすいものができる場合が多い。養老孟司さんの「バカの壁」(450万部)とか藤原正彦の「国家の品格」(300万部)など。

⑥せっせとブログに書いて読者をひきつけて、固定ファンできたところで、本にしていく。Youtubeで小出しに発信していく。固定ファンができれば、そこから発信も販売も可能。本だけでなく、ワークショップも可能。