過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「戦闘」での死ではない。「餓死」あるいは栄養失調に伴う病死。

戦没者230万人。そのうち約76%が終戦前の約1年間に集中している。そのうち73%が「戦病死者」。

「戦闘」での死ではない。「餓死」あるいは栄養失調に伴う病死が多い。その数、140万人(全体の61%)ともいわれる。

同僚の屍肉を食べて生きのびることもあったろう。そうしたことを素材にしたのが、映画「軍旗はためく下に」「ひかりごけ」。そして「ゆきゆきて神軍」。

ゆきゆきて神軍」では、実際に、死人の肉を食べて生き延びたことをドキュメンタリーで語らせている。

大岡昇平の「野火」の一節を引用する。死んだ兵士にたかったヤマヒルをつぶして、その血をすすって生きながらえるというすさまじい描写がある。

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私はその将校の死体をうつ伏せにし、顎に水筒の紐を掛けて、草の上を引きずった。頂上から少し下って、二間四方ぐらいの窪地が陥ちているところまで運んだ。その草と灌木に蔽われた陰で、私はだれにも見られていないと思うことができた。

しかし私は昨日この瀕死の狂人を見いだした時、すぐ抱いた計画を、なかなか実行に移すことができなかった。私の犠牲者が息絶える前に呟いた「食べてもいいよ。」という言葉が私に憑いていた。

飢えた胃に恩寵的なこの許可が、かえって禁圧として働いたのは奇妙である。

私は死体の襦袢をめくり、彼が自ら指定した上膊部(じょうはくぶ)を眺めた。その緑色の皮膚の下には、痩せながらも、軍人らしくよく発達した、筋肉が隠されているらしかった。私は海岸の村で見た十字架上のイエスの、懸垂によって緊張した腕を思い出した。

私がその腕から手を放すと、蠅(はえ)が盛り上がった。皮膚の映像の消失は、私を安堵させた。そして私はその死体の傍らを離れることはできなかった。

雨が来ると、山蛭(やまひる)が水に乗って来て、蠅と場所を争った。虫はみるみる肥って、死体の閉じた目の上辺から、捷毛のように、垂れ下がった。私は私の獲物を、その環形動物が貪り尽くすのを、無為に見守ってはいなかった。

もぎ離し、ふくらんだ体腔を押し潰して、中に充ちた血をすすった。私は自分で手を下すのを怖れながら、他の生物の体を経由すれば、人間の血を摂るのに、罪も感じない自分を変に思った。

この際蛭は純然たる道具にすぎない。他の道具、つまり剣を用いて、この肉を裂き、血をすするのと、原則として何の区別もないわけである。

私は既に一人の無辜(むこ)の人を殺し、そのため人間の世界に帰る望みを自分に禁じていた。私が自分の手で、一つの生命の歴史を断った以上、他者が生きるのを見ることは、堪えられないと思ったからである。

今私の前にある死体の死は、明らかに私のせいではない。狂人の心臓が熱のため、自然にその機能を止めたにすぎない。そして彼の意識がすぎ去ってしまえば、これは既に人間ではない。

それは我々が普段何ら良心の苛責なく、採り殺している植物や動物と、変わりもないはずである。この物体は「食べてもいいよ。」といった魂とは、別のものである。

私はまず死体を敵った蛭を除けることから始めた。上膊部の緑色の皮膚(この時、私が彼に「許された」部分から始めたところに、私の感傷の名残を認める)が、二、三寸露出した。私は右手で剣を抜いた。私はだれも見てはいないことを、もう一度確かめた。

その時変なことが起こった。剣を持った私の右の手首を、左の手が握ったのである。
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大岡昇平「野火」より)

大岡昇平は、フィリピン、ミンドロ島アメリカ軍の捕虜となる。帰国後『俘虜記』を執筆。「レイテ戦記」「武蔵野夫人」など。