過疎の山里・春野町で暮らす

山里暮らしの日々を綴る/いちりん堂/NPO 法人 楽舎

「丸山真男回顧談」つづき

丸山真男の「三島庶民大学」の続き。
こんなものすごい講座を普通の市民に対して行っていた。びっくり。
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丸山 庶民大学のこの講義で、ロマン主義ヘーゲル哲学とをはっきり分かつのは、というので、弁証法の論理と有機体の論理との違いを言ったりなんかしているのです。

――いまは、大学生には、もうわかりませんね。

丸山 そうですね。まさに「学問のすすめ」の時代ですね。すごい欲求です。今からは考えられないくらいです。

自己弁解になるけれど、一方的に知識人が押しつけたというのは、まったく実感と違うな。むこうから沸き上がるようにやってきて、こっちがややタジタジというのが実感です。

米屋さんに「いただきました」と言われると非常に嬉しいんだな。庶民はスノビズムがぜんぜんないでしょう。だから、わからせるのは大変だなと思った。わかろうとするものがなければ、そもそも教えようとしないです。

ぼくはだから、ドイツ理想主義のことを非常に褒めた上で、「しかし、「自由」の問題と「民族」の問題とがいちばん深い基礎づけをもった、まさにその国に於て、政治的自由と民族的統一の実現が最も遅れていたということは興味深い。

ドイツ人は政治的に社会的に自由を実現できなかったために、いわば内向して、精神の王国に於てその夢を満たした。

十八世紀末から十九世紀はじめにかけてのドイツは、政治的・社会的にみじめをきわめたのとちょうど反比例して、学問と芸術に於て比類なく輝かしい業績をあげた。

ゲーテ、シラー、ノヴァリスの文学、モーツァルトベートーヴェンシューベルトの音楽、カント、フィヒテヘーゲルの哲学。それらはドイツ民族の永遠の誇りであるが、他方それらは政治的・社会的な停滞という高い犠牲に於てかちえられたものであることを忘れてはならない。

そうして、一方、こうした高い芸術と哲学を生むほど優秀な素質にめぐまれたドイツ人が、その外部的環境を、生活環境を打開し、政治・社会制度を改善し、高めて行くという点でスタートからつまずき、この立遅れが後々までまつわりついたために、政治意識に於ては著しく他の欧州諸国民より劣位にあることが、どれほどドイツにとって悲劇的な結果をもたらしたか。我々はそれを二度にわたる世界大戦でまざまざと見せつけられた。

あの理性と教養を持った多くのドイツ人が、ヒットラー伍長とその周囲に集まる粗暴な乱暴者たち(突撃隊)の低級きわまる煽動にたやすく乗せられたということは、ほとんど理解に苦しむものがあるけれども、まさにこのことに、ドイツの生活と思想の間の著しい破行性を看破せねばならぬ。

ドイツ人はアングロサクソン人をば思想が浅薄だとか、物質主義的だなどと嘲笑していながら、二度までも自らの頭上に、その浅薄な物質主義者の支配を招かねばならなかったのだ」

ぼくの頭の中には、悪いけれども、いつも日本の岩波文庫的教養人があるのです。

英米人はドイツ人の様に日常生活から遊離したイデオロギーに陶酔しない。彼等はたえず学問のなかに生活をもちこみ、生活のなかに学問をもちこむ。

思想や「イズム」が肉体化していることが彼等の特徴だ。だからデモクラシーは単なる理論でなく、生活様式として躍動しているのである。苦いと思ったこと、正しいと思ったことは直ちに実現すべく外に向って働きかけ、社会的環境をかえて行く、内部を深め、豊かにすることと、外部的環境をたえず高めて行くこととをつねに併行させて行かねば第一級の国家、第一級の国民となりえない――これがドイツ哲学から我々が学ぶ一つの教訓である。
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丸山真男回顧談」(岩波書店)より